90 断罪
行けども行けども、領主の館に至る道以外は木々ばかり。その道も枝葉を広げた木が陽光を遮り、昼間だというのに闇を淀ませていた。
その道を、ガラガラと音を立てて、イザベラ一行の馬車は進む。
木々の間から時々見える空は晴れているが、これから会わなければならない男のことを思うと、イザベラの心は曇天だった。
魔王を手引きし、聖女アメリアを魔族に落とした悪女として、イザベラは断罪された。保留になっていたジェームスとの婚約は正式に破棄。サンチェス公爵家からは勘当を言い渡された。
勇者ジェームスが魔王を倒す手助けをしたセスは、表向きとしてデリンズ辺境伯に任じられ、曰くつきの領地を与えられた。
やがて前方に見えてきた、森深くにある領主の館は、イザベラの記憶にあるものと同じだった。森と頑丈な壁に囲まれた屋敷。嫌な思い出の場所。
イザベラは膝の上に乗せている、ぬいぐるみを抱く手に力を入れた。
「お嬢様」
じっとりと冷たい汗を掻く手を握られた。見上げると青い瞳が柔らかく笑んでいる。
「セス。今はちょっと離して」
手を握ってくれるのは嬉しいけれど、今はまずい。汗を掻いた手なんて握らないでほしい。
イザベラは手を引っ込めようと力を入れたが、びくともしない。
こういう時、エミリーならお姉さんぶって注意しただろう。ジェイダならセスをぴしゃりと叱っただろうし、エヴァンならからかいつつたしなめるだろう。しかし、あいにくこの馬車の中にはセスとイザベラだけだ。
「大丈夫です」
優しくて穏やかで、何でも言うことを聞いてくれるセスだが、折れない時は折れない。最近はそれが強くなっている。
「私は大丈夫じゃないわよ」
イザベラは頬を膨らませて横を向いた。
汗で湿った手なんて恥ずかしいし、きっと気持ち悪い。好きな人に気持ち悪いと思われるのは嫌だ。非難をこめて軽く睨むと、にっこりと微笑みを返された。
「色々、全部、大丈夫です」
何の色々で、何が全部大丈夫なのか。
イザベラの手を離すどころか前より強く握り込んだセスが、触れ合わせていた肩を離し、馬車の窓に張り付くようにして前方を見据えた。
セスの瞳に蒼い炎が浮かぶ。
「お嬢様の……イザベラの過去は全部俺が塗り替えてやります」
※※※※
陰鬱さが一層暗く感じさせる地下牢。
煌びやかな表舞台とはかけ離れた場所に、イザベラは再び足を踏み入れていた。
「ど、うして」
抑えられた照明魔具の光の下、ぼろきれ同然のワンピースを纏った女が、虚ろに呟いた。
女のほとんど露出した肌を、擦り傷と打ち身が埋め尽くし。手足と首に嵌められた枷から伸びた鎖は、床に打ち付けた杭に繋がっている。
やり直す前。奴隷として買われ、受けた数々の仕打ちが再現されていた。魔石を使って壁を壊し、セスが地下牢に乗り込んだことも。
「なんだ、貴様。こんな事をしてただですむと思っているのか!」
薄い眉と唇。痩せ型の神経質そうな中年の男がセスを指さし、唾を飛ばしてわめいた。
男はモリス伯爵。前回、奴隷落ちしたイザベラを買った男だった。そして今回、誘拐したイザベラを買おうとした男でもある。
そのモリス伯爵がなぜデリンズ辺境伯の屋敷にいるか、だが。
貴族は複数の領地を持つことが多い。モリス伯爵は七つの領地を持っていて、デリンズ辺境伯領もそのうちの一つだからだ。
「ただですむどころか」
拳を握ったセスがモリス伯爵との距離を詰めた。
「お釣りが来る!」
振り抜いたセスの拳が、伯爵の顔面にめり込んだ。
前回との違いはいくつかある。一つはセスがモリス伯爵の言葉を遮らずに殴ったこと。一発で意識を刈り取ることをせず、わざと手加減したこと。
手加減したとはいえ、伯爵は地下室の床を二度ほど回転した。鼻からぼたぼたと垂れた血が伯爵の服と床を汚した。
「ひぎぃいい。ぎ、ぎさま!! 許さんぞぉ! 殺してやる」
「やれるものならやってみろ」
床にうずくまったまま吠える伯爵を、セスが冷たく見下ろした。まだ殴り足りないのだろう。青筋の立った拳を握ったり開いたりしている。
「おい!! 何をしている!! 侵入者だ! おいっ!!」
モリス伯爵が地下牢の外の廊下に向かって叫んだ。
「お嬢様」
叫び続ける伯爵を無視して、セスがイザベラの背中に手を回した。優しく叩いてくれる。その振動を皮切りに、過去に囚われていたイザベラの足がやっと動いた。
しっかりしなくては。
大丈夫。イザベラは今、奴隷ではない。セスもそこにいる。何よりも、かつての自分と同じように、否、もっと辛い思いをしているかもしれない女が、目の前にいるのだ。
「もう大丈夫よ」
鎖に繋がれた女に歩み寄り、祈る。白い光が女を包み、傷と打撲を癒した。
奴隷として酷い目に合っているのは、イザベラではない女性だということも、やり直す前との違いの一つ。
「くそ! なぜ誰も来ない!」
苛立ちに顔を歪めた伯爵が、上着の内側から拳銃を取り出し、セスに発砲した。
「ははは! ……は……は……」
粘ついた優越感に満ちた笑い声はしりすぼみに消えた。限界まで見開かれた目が、セスを映す。銃弾を指で受け止めたセスを。
「ば、馬鹿な」
「無駄だ。こんなもの。身体強化の魔法さえかければどうとでもなる」
セス本人に魔力はないが、知識は誰よりもある。魔石さえあれば、魔法も自在だった。
つまらなさそうに銃弾を摘まんでいた指を、セスが開いたところで。
「セス。上は制圧したぞ」
「被害者の身柄も無事に確保しました」
壊れた壁の向こうから、エヴァンとジェイダが顔をのぞかせた。
「ありがとうございます」
二人に頷いたセスが、書状を取り出す。
「モリス伯爵。人身取引の現行犯でお前を捕らえる」
「なんだと! そんなことが認められるわけがない!」
「お前が買収していた役人は全て捕縛済みだ。マリエッタ嬢を利用して、公爵令嬢であるイザベラ様を誘拐した犯人どもも、裏で繋がっていた貴族や商人どももだ」
モリス伯爵が所有する複数の領地のうち、辺鄙で開発されていないデリンズ辺境伯領を、人身取引のアジトにしている。
「モリス伯爵。私、やられっぱなしは性に合わないんです。ということで」
顔色が白くなったモリス伯爵に、イザベラはゆっくりと近づいた。セスの隣に並ぶと、艶やかな笑みを貼りつける。
息のかからないギリギリまで顔を寄せ。
「私の分まで地獄に落ちろ、くそ野郎」
中指を立てた。
「この、クソ女がァッ」
イザベラの額に向けた銃口が火を噴く。
「馬鹿ね」
ザザザ。イザベラが腕に抱くぬいぐるみから、馴染みのあるノイズが鳴った。
――くくく。いい憎しみ、いい絶望だ……ザザザ――
銃弾を飲み込んだ黒い影が、モリス伯爵を包む。しばらくして影が引き上げると、白目を向いた伯爵が転がっていた。
お読み下さりありがとうございます。
本作は、毎週水曜日の更新。
あと一話か二話で完結です。
最後までお付き合い下さると嬉しいです。




