89 世界はもしかすると
悲鳴と怒号が破壊の轟音に混じる。何を言っているのかは聞こえないが、堕ちゆくセスへの恨み言か慟哭か、はたまた叱咤激励か。
後でたくさん怒られよう。仲間の悲愴な表情を見て、セスは思った。
そんな中、ただ一人だけ。手を繋いでいるイザベラが、セスにささやく。
「信じてる」
泣きそうなほどの嬉しさに、セスは震えた。さっきからセスは馬鹿みたいに笑っている。
端から見れば魔王に乗っ取られたように見える行動だ。それなのにイザベラは、蒼白になりながらもセスを信じてくれている。
思いが通じ合っただけでも嬉しいのに、無条件の信頼を寄せられる。こんな幸せがあるだろうか。
――知っているぞ、セス・ウォード。お前はこちら側の人間だ。お前の本質は憎しみと絶望だろうッ……ザザッ――
「うるさいな。黙ってろよ、雑音。防護!」
本気でうるさい。せっかくいいところなのに、本気で邪魔だ。
黙らせようと、セスは次々と魔法を放つ。
「再生」
「終焉」
「再生」
「防護」
「破壊」
「再生」
――くそっ……ザザザザ……――
魔法を使う度に魔王の雑音と黒い影の勢いがどんどん弱まっていった。まだわめいているが、関係ない。
自分の本質が憎しみと絶望であっても、イザベラさえいれば反転するのだから。
勇者と魔王は正反対の存在。表と裏。どちらにも成り得る素養を持っている。どちらを選ぶかに過ぎず、セスはイザベラを選んだ。だから自分の中でどれだけ魔王が絶望と憎しみを垂れ流そうと平気だが、うるさいのは面倒くさいし、うっかり気を抜いてそっちに傾いてしまっては困る。
「なあ坊主。何をしているのか聞いてもいいか」
最初は悲愴、段々と唖然として、無表情になっていたエヴァンが抑揚のない声で聞いてきた。ちらりとそっちを見ると、ジェイダも似たような顔で仁王立ちだ。元々表情があまり動かない人ではあるが、怖い。
放心しているトレバーはどうでもいいとして、まだおろおろとしているエミリーにほっとする。
「魔法をぶっ放して魔力を消費してるんだよ、防護」
「何のために」
「魔王の力の源は人間の憎しみと絶望だけど、欲望や嫉妬、怒りなんかもある。破壊!」
「それで?」
「お嬢様が言ってただろ、嫌な感情があるから頑張れるって。再生。ふう、これくらいでいいかな」
まだ魔力を完全に使い切ってないけれど、これ以上やると自分がぶっ倒れてしまう。今倒れるわけにはいかない。
「神が認めたがらなかったから知られてない‥‥‥というか公式発表されてないけど、魔力って実は負のエネルギーなんだよ」
現在の世界を満たす魔力の少なさの要因は魔王の不在にある。魔法は魔力を使って自然の法則を曲げて、自分の望みを実現させるもの。魔力の源であった魔王がいなくなったから、魔法の時代が終わりを告げたのだ。ちなみに魔石は魔王の力の残滓である。
「なるほど。魔法を連発して魔力を消費すれば、魔王の力を削げる、ということか」
「そういうこと。一時的な応急処置みたいなものだけど」
なるべく大きく魔力を消費する大規模な魔法を連発したが、魔王の力はすぐ回復する。人間がいる限り、負の感情はそこかしこにあるのだ。
「一度魔王を倒せば長く平和になるけど、器ごと殺さなきゃいけないし、そもそも今の俺は聖剣使えないし」
正確には扱うことは出来るが、器が耐えられない。耐えられたとしても魔王の器はセス本人。自殺願望はないから却下だ。
「大丈夫なの?」
「はい」
もう二度と彼女の前で死ぬのはごめんだ。あの時のように泣かせたくない。泣かせない。絶対に幸せにしてみせると誓ったのだから。
「魔王は片付きましたけど、後はどうしますか?」
イザベラに問いながら、セスは辺りを見渡した。
セスの魔法で破壊と再生を繰り返した王城であるが、今は元通りの絢爛さを取り戻している。傷一つなくなった大理石の床には、魔族に乗っ取られていた貴族たちが倒れていた。斬った王と王妃もいるから、魔族として死んだ者たちも復活したようだ。彼らの中心には、ジェームスとアメリアが身を寄せ合っていた。
「ジェームス様」
「しっ。君は何も心配しなくていい」
「でも」
「いいから」
アメリアにこの上なく優しい表情を向けてから、ジェームスが顔を厳しく引き締める。覚悟を決めたジェームスの顔に、セスもまた気を引き締めた。
前の自分が言うには、魔族に乗っ取られていた時の記憶はないらしい。となれば、人々の記憶はアメリアが『魔王』として指名手配された時で止まっている。
このままでは『魔王』として断罪され、アメリアの未来は潰れる。良くて追放、悪ければ死刑だ。
ジェームスには、政治的な権力がある。
アメリアを助けるため、人々の記憶にないことを逆手にとり、王の間であったことを捏造。セスとイザベラを悪者にする。そうなったらいくらイザベラとセスが真実を話しても、大衆はジェームスの言葉を信じるだろう。信じなくとも、強行出来る。
「セス。私はアメリアを助けたいの。だから」
「はい?」
思わずジェームスから視線を外してイザベラを見ると、いい笑顔にかち合った。瞬時に悟る。
「私、悪役令嬢になろうと思うの」
あ、これは我儘言う時のお嬢様の顔だ、と。それも無茶ぶりの。
「駄目だ、イザベラ!! ドレスや宝石ならいくらでも買ってやる。そこの駄、いやセスとの結婚もみ、認めてやる! だが悪役というのは、駄目だ! なぜお前が被らねばならんのだ。それだけは認めんぞ!!」
イザベラが何をしようとしているのか。セスと同じく思い至ったトレバーが声高に叫んだ。
「このまま放っておけばお前が聖女だ。セスが勇者だ! この国を救ったのはお前たちだ。栄光と名誉、賛辞と祝福。全てがお前のものになるんだぞ!」
「分かってる。でも全部要らないの」
「……っ!!」
額に青筋を立てたまま、トレバーが口を何度も開いては閉じた。それから諦めたように片手で顔を覆い肩を落とした。
「俺は公爵としての生き方しか知らん。いっそ処刑してくれとも思うが、ダイアナのことを考えるとそれも出来ん」
力なく言葉を絞り出してから上げたその顔は、何歳も老けて見えた。疲労感の濃い様子のままだが、しっかりとした足取りでジェームスの前まで行き、ひざまずく。
「殿下。わたくし、トレバー・サンチェスは、今この時をもって娘イザベラを公爵家から除名致します。サンチェス家は、娘の罪と一切関わりがないものとお認め頂きたい」
「……っ」
アメリアを抱き寄せたままのジェームスが顔をひきつらせた。
「はあ」
どんな我儘も無茶ぶりも受け入れる。それがセスの在り方だ。それは変わらない。ただ今回はいつもより覚悟が必要だと、セスは溜め息を吐いた。吐いて、迷いを吹っ切る。
「殿下」
「なんだ」
ジェームスから魔王が離れたのは、イザベラが魔王を取り込んだ時。セスが魔王を取込み、大規模魔法を連発したのはその後だ。セスの脅威は知っているだろう。
「今の俺は、その気になればこの国を、世界を滅ぼせます。俺は世界が嫌いです。憎んでさえいました。世界は、人間は、冷たくて、汚くて、優しくない」
ジェームスがアメリアの死刑を阻んでも犯罪者扱いだ。無駄に聖女として顔が知られているから、実家のパン屋で元の生活を、ともいかなくなるだろう。
罪人とされた人間が、どんな生活を強いられるか。セスはよく知っている。心無い言葉と冷たい態度。飛んでくる石。こき使われるだけ使われ、まともな物を売ってもくれないから、常に腹が空いていた。
「でも今の俺には、温かくて綺麗で優しい人がいます。殿下にもおられますよね」
ジェームスとアメリアがさらに身を寄せ合った。隙間という隙間を埋めるように。
「この場にいる全員を殺すことも出来ますが、進んでやりたいとは思っていません」
地獄のようだった世界を憎んでいた。今でも憎しみは消えていない。でもだからといって、他人を同じ地獄に落としてやりたいとは思わなかった。必要ならやるが、必要でないならやりたくない。
「諦めて、俺に脅されてください。イザベラの要求を呑んでください」
世界の幸せなんて望んでなかった。ただ一人。彼女のためだけに世界を救いたかった。彼女が幸せなら、それだけでよかった。
でも今は。いつの間にか、自分も幸せでいたいと思うようになっていた。自分も幸せになったら、他の人も幸せだったらもっといいと思うようになっていた。
「アメリア様と幸せになってください」
ジェームスとアメリア。この二人にも。
もしかしたら世界は、美しいのかもしれない。
セスはそう思い始めていた。




