76 猫なで声
「この駄犬が勇者とは。これはいい」
ひとしきり笑ったトレバーが、仰いでいた天井から首を戻した。
「勇者は聖女が選ぶと文献にあった。イザベラ。ジェームス殿下とセス、どちらが本当の勇者か分かるか」
「セスよ。殿下は王城の人たちと同じで、乗っ取られたの」
イザベラは剣術大会での出来事を話す。トレバーは不精髭の浮かんだ顎に手を当てて、じっと聞いていた。
「そんな。ジェームス殿下も魔王の仲間なの? 殿下と護衛騎士、セスの力を合わせればまだ勝機はあると思っていたのに。なんてことかしら。想像以上に状況が悪いわ」
青ざめた頬に手を当てたダイアナが呟いた。
「このままでは殺されてしまうわ。どうにかして逃げましょう」
「どうやってだ。わざわざ俺とダイアナまでおびき寄せて閉じ込めているんだぞ。これだけ用意周到な奴らが、みすみす逃がすわけがない」
オロオロとするダイアナを、トレバーが一蹴した。
残念だけど正論だ。魔王にとって一番邪魔な勇者と聖女とその両親を、万全の状態でおびき出して閉じ込めたのだから。
逃げ出したところですぐに捕まる。もしくは、逃げ出すのを待っているのかもしれない。
「しっかりなさいませ、奥様。こうなれば、状況を逆手にとってやればいいのです。逆に魔王を倒すチャンスでございます。こちらを喰おうとして開けた喉を、刺してやりましょう」
「ジェイダ。簡単に言うけれど……」
ジェイダに力強く喝を入れられたが、ダイアナは渋い表情のままだ。
「いえ。私もジェイダ嬢の意見と同じです。というよりも、それしか残されていません」
一番後ろに控えていたエヴァンが口を開き、ジェイダを援護する。
「すみません、エヴァン様。すっかり巻き込んでしまったわ」
イザベラは、後ろに立つエヴァンを振り返って謝った。彼は元々ジェームスの護衛騎士だというのに。
「気に病むことはないですよ。ジェームス殿下の元にいたとしても、同じでしょう。奴らの仲間になるか、死か、です。イザベラ様の元なら、勝つか負けるか。こっちの方が性に合っていますよ」
片目をつむったエヴァンが、肩をすくめてみせた。
「勝つか負けるかか。勝算はどれぐらいある」
トレバーの問いにエヴァンが微笑む。
「勇者と聖女は魔王を倒すことの出来る唯一の存在である。聖女の力を合わせた勇者に魔王はなすすべもなく滅ぼされた」
エヴァンがそらんじたのは、この国の民なら幼子も知る昔話であり、誰もが知る歴史だ。
「この国の始祖王の伝説ですから、誇張されているかもしれませんが、実際に魔王を倒したのですから勝ち目はあるかと」
「全くないよりはましな勝ち目じゃない」
「ははは! そう悲観しなくても大丈夫ですよ、イザベラ嬢。聖女の力で勇者の力が増幅された時のセスは、今のところ負けなしです」
「でも。殿下とアメリアの二人を相手にしなきゃならないのよ。それだけじゃないわ。王も王妃も、王城の人間全てがモンスターなのよ。ガーゴイルもオークも、ワーウルフだってセスしか斬れなかったのに」
たとえセスが魔王を倒せたとしても。エヴァンはモンスターを倒せない。セス一人で全てのモンスターを相手にするなど、無理だ。
「そうですね。悔しいですが殺されないように立ち回るだけで精一杯になります」
「やっぱり」
思った通りの答えに、イザベラは肩を落とした。
「魔王が滅びた後、魔王の眷属たちは全て消え去った」
落とした肩に重みが加わり、イザベラは顔を上げた。上がった視界に、うっすらと笑むジェイダがいた。
「その一節が正しいのなら。魔王さえ倒すことが出来れば、モンスターは消えます」
「そういうことです。セスがジェームス殿下とアメリア様に勝つこと。我々が自分の命を守りきること。この二つさえ出来れば勝てます」
大丈夫と安心させるように、エヴァンとジェイダの二人が頷いた。
伝説が正しいとは限らない。それでも希望が見えた。
「そうか。そうだな……」
ひくっとトレバーの口元が引きつった。
「王も王妃も、王族全てが化け物。奴らを倒せば全てが空位だ。魔王を討ち取って、化け物どもを駆逐すれば」
ひくひくと歪に頬を動かし、ぶつぶつと呟く。その呟きは、段々と音量を増していき、目がぎらついた。
「はははは! ははははは! 逆転勝利だ! 正真正銘、国を救った英雄としてセスは国王。イザベラは王妃。この国建国の伝説と同じじゃないか!」
ひとしきり高笑いしたトレバーが、うっすらと隈の出来た目を細めると、打って変わって穏やかで優しい声を出した。
「でかしたぞ、セス。流石はうちの護衛騎士。俺も鼻が高い」
突然の猫なで声に、イザベラは鳥肌が立った。
トレバーは普段、使用人に厳しい。頭のごなしに怒鳴り散らすのが常だ。しかし時々、こうして猫なで声で褒める。それは前世の父親とそっくりだった。
「待ってお父様」
うなずいてはいけない。これは洗脳だ。
散々暴力を振るわれていると、日常の中で少しでも褒められたら、それがどんなに見え透いていても矛盾していても、ひどく嬉しい。嬉しくて、言うことを聞きたくなる。もっと褒めてほしくなる。
首を横に振ろうとしたイザベラを、トレバーの青い目が射抜く。ソファーから立ち上がったトレバーが、イザベラの肩に手を置いた。
「いいから少し黙っていなさい。いいね、イザベラ」
ジェイダとは違い、肩を掴む手にこもった力は強くて痛い。笑みの形をとっただけの唇。声に含まれる、有無を言わせない圧力。
足がすくみ、声が凍った。
イザベラの肩を掴んだまま、トレバーがセスに続ける。
「手塩にかけて育ててやった甲斐があったというものだ。なあ?」
違う。手塩になんてかけるどころか、何かあれば殴った。水や食事を与えない日も、寒空に外へ放り出したことも。
ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。もうしません。ゆるして。
イザベラの脳裏によみがえったのは、セスの声ではなく、幼い女の子の声。
前世の麗子。
「セス。野垂れ死ぬしかなかった野良犬を拾って、ここまで大きくしてやったのは誰だ」
こうやって恩を着せて、思い通りにする。
「それは」
駄目だ。前世の麗子とセスも同じになってしまう。それだけは。セスだけは。前の自分と同じにしてはいけない。
止めないと。
「……セス」
かろうじて絞り出した声はひどくかすれ、止めようと袖を引いた力は、弱々しい。
情けない、こんなんじゃセスを守れない。
変わるって誓ったのに。今度こそこの人を幸せにするって誓ったのに。
動け、私の足。
「お前の母の墓を作ってやったのは誰だ」
動け。動け動け動け。動け!
「……イザベラ。何をしている」
イザベラは大きく両手を広げ、トレバーとセスの間に立った。
声は出ない。だからただ、黙って歯を食い縛って溢れそうになる涙をこらえた。
出るな。涙。震えるな、体。
「退きなさい」
ふるふると首を横に振る。退かない。
「退け!」
トレバーの手が上がった。
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