72 壁に向かって
「殿下。私が貴方の本当を取り戻して差し上げます」
にこやかに宣言したイザベラに、ジェームスが返したのは無言だった。
表情は黒い影が邪魔してよく見えないが、ゆるく結ばれた口元と、ゆったりとした体の構えから余裕がうかがえる。
「殿下」
セスが、ずっと抱きしめるように支えていたイザベラを、一度離して前に出た。後ろ手に腕を回し直す。
「勇者は俺です。イザベラは渡さない」
力強い宣言。
驚いて見上げたセスの背中越しに覗く、ジェームスの口角が歪に上がった。悦ぶように。面白がるように。ほの暗く。
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「ああああ。やっちゃった。どうしよう」
馬車の中で、イザベラは頭を抱えていた。
馬車といっても、以前誘拐されて乗せられた馬車とは比べ物にならない。あの時はガタガタと揺れて、身体中が痛かったが、この馬車は揺れが少ない上に柔らかい座席がある。車体は幌ではなく、しっかりとした金属製で、馬が引いてはいるのだが、半分は魔石を動力源にしている。
馬車の中にはイザベラとセス、エミリーとジェイダの四人が乗っている。エヴァンはセスと交代で御者を務めていた。
ジェームスの本当を取り戻してやる、だなんて。どうしたらいいのか、具体的な方法も作戦もさっぱり浮かんでいない。
イザベラたちから見て、明らかに怪しいジェームスだが、端から見れば勇者で王族。たてつくなどとんでもない。
なのに思い切り喧嘩を売ってしまった。
「何を今更。後悔などするだけ無駄です」
冷たく切り捨てるのはジェイダだ。
「分かってるわよっ」
イザベラは頭を抱えていた手を下ろし、馬車に置かれたクッションを膝の上に持ってきて抱きしめた。
「殿下が何もおっしゃらなかったのが、不気味でございましたです」
向かいの席で両手で自分を抱いたエミリーがぶるっと体を震わせた。結局エミリーは逃げ損ねて、あの場にとどまり一部始終を見ていた。
手をぶっ叩いて拒否した後、ジェームスは微笑んだだけで何も言わず立ち去った。その微笑みがなんとも怖かった。
「殿下が何か言う必要などありません。イザベラ様が嫌だと言ったところで婚約は進められます」
「そうね」
イザベラは膝の上のクッションに頭を落とした。
ぼすん。クッションがイザベラを柔らかく受け止める。
「聖女として勇者の殿下の正妃候補。願ってもない返り咲きを蹴るなど、旦那様も激怒でしょうね」
「そうよね」
ずん。膝の上のクッションに顔をうずめるイザベラに、ジェイダの容赦ない槌が振り下ろされる。
「そもそもこんな状態から殿下とアメリア様を元に戻しても、お二人の立場上完全に戻れるかどうか」
「そうよねぇえええ」
めり。クッションがイザベラの下でこれ以上ないくらいに圧縮された。
政略結婚に当人の意思など関係ない。
平民から王子に見初められた聖女は、一瞬にして人間の敵である魔王に堕落。リアンに連れ出されたアメリアは、魔王として指名手配された。
ジェームスはアメリアとの婚約をなかったことにして、まだ破棄していなかったイザベラがまた正室候補に返り咲きしている。
この状態でたとえジェームスとアメリアが元通りの関係に戻っても、アメリアが王族の婚約者として認められるかどうか。非常に厳しい。
「まさかアメリアが魔王だったなんて。しかも王太子殿下を」
馬車で王都に向かっている理由が、まさにそれだった。アメリアによる王都襲撃。王太子殺害。これによって勇者と聖女候補のジェームス王子、セス、イザベラが王都に呼ばれた。
「アメリア様は魔王じゃありませんよ。魔王は殿下の方です」
「セス」
イザベラはうずめていたクッションから顔を離した。頬杖をついて馬車の窓から外を眺めるセスの横顔をまじまじと見つめる。
「どうしてそう断言出来るの。どっちが魔王かなんてまだ分からないじゃない」
「勘です」
「勘って。そんなあやふやなもので決めつけるの?」
声に呆れを含ませたのに、セスは慌てもせずに馬車の横の景色ではなく、向かう先を見据えている。あどけなさの残る輪郭だが、目に宿る光は鋭い。
その目に映っているのは、イザベラたちが乗る馬車の先を行く馬車だ。そこにはジェームス王子が乗っている。
「別にどちらでも構いませんよ。二人とも倒す。それだけです。元に戻すなんて甘いことを言っていたら、またやられるだけだ」
先行する馬車を睨んでいた青い瞳が、イザベラに向いた。自身の膝に乗せていた手が、頬に伸びてくる。
「今度こそ」
頬を撫でた手が髪に差し込まれた。指先に軽く力が入ってイザベラの頭に沿う。
「セス?」
遠慮して必要な時以外触れてこないセスが、こんなことをするなんて。一体どうしたのだろうと戸惑いながらも、心に反して胸が高鳴り、頬に熱が上る。
「あ」
はっと目を見開いたセスが動きを止めた。数秒固まってから、弾かれたように体ごと手を引く。
「勝手に触れて申し訳ありませっ、痛っ!」
当然、狭い馬車の中。後ろ頭を打ったセスが頭を押さえた。
「全く。殿下に啖呵を切った男はどこへ行ったのです。意気地のない。そんなことでは旦那様と奥様を納得させられませんよ」
ジェイダの黒縁眼鏡のレンズが冷たく光った。
王城には公爵である父トレバーも詰めているらしい。出立前、そのトレバーから連絡があった。
『王太子殿下のことは聞いているな。聖女候補とはいえお前は私たちの娘だ。王都の別邸に滞在するといい。陛下の許可は頂いている。ダイアナもお前を心配して向かっている』
それだけ言うと、一方的に切れた。用件のみの簡素な連絡は、常に忙しいトレバーらしい。
「当面の問題は、お父様とお母様ね」
「そうですね」
溜め息を吐くイザベラの横で、セスが顔を強張らせた。
王太子殺害で呼ばれたのだから、まずは王城に参じることになるが、その後は王都の別邸で過ごすことになる。
母のダイアナまで来るということは、二人を相手にしなければならない。セスにとっては絶対的な主人。イザベラにとっても親は絶対的な存在だ。
ジェームスとアメリアの前に越えなければならない、大きな壁だった。
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