59 嫌われたくない(※挿絵あり)
「……麗子さん? ……って、誰だ?」
セスの口から飛び出した『麗子』の名に、イザベラは喉をひゅっと鳴らした。同時にざっと血の気が引く。
「麗子……その名を知っているということは……まさか、セスは祐助なの?」
時々、なぜかセスに裕助が重なる。それは気のせいなだけ、と思っていたけれど。
誰も知ることのないはずの麗子という人間。それを知っているのなら、セスもまた転生者だということだ。それも麗子にある程度近しい人間だったということになる。
前世の麗子の名前を知る人間は、この世界に誰もいない。この世界には、日本名と同名などいるはずもなく。イザベラも誰にも言ったことがないのだから。
「ユウスケ? 前にお嬢様が言ってらした名前だ。誰だろうって思っていたんですが。ユウスケが、俺のこと……? あー、くそっ」
セスがもどかしそうに、銀髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。
麗子の名を出したのに、裕助が誰だかわかっていないらしい。ということは、セスは裕助ではないのだろうか。
「イザベラ嬢。どうやら坊主よりイザベラ嬢の方が事情を分かっている、そうですね?」
エヴァンがセスの肩を叩き、イザベラに視線を向けた。
「それは」
それを認めれば全て話さなければならない。一度目のことはまだいいとしても、前世のことまで。
傲慢で、鼻持ちならなくて、思い通りにならなくては許せない、悪役令嬢。見下している平民のアメリアを陥れ、逆に断罪された一度目。
金と復讐のために、複数の男と関係を持った汚れた前世。麗子は裕助を手酷く振った挙句、苛立ちも我儘も全てぶつけた。
その所業を洗いざらいぶちまけたら、どうなるだろう。きっと嫌われる。それどころか軽蔑される。
「隠しても無駄ですよ、お嬢様」
「事情を教えてくれませんか、イザベラ嬢」
「お嬢様?」
三人の視線が突き刺さり、エミリーだけが三人とイザベラを交互にせわしなく見ていた。イザベラは皆に視線を這わせてから、自分の手を握るセスの手に視線を落とす。
話して嫌われたら、この手も振り払われてしまう。
イザベラはセスの手を振り払うと、胸の前でぎゅっと握った。じわりと眼球が湿り気を帯びる。
怖い。
せっかく味方ができたのに。嫌われてしまう。
前世の父親やジェームス、黒い影に抱く恐怖とはまた違う恐怖だった。
好きだから。信頼しているから。もっと一緒にいたいから。
前と違って味方がいるからこそ、嫌われるのが怖い。軽蔑されたら立ち直れない。
「ちょっと待ってくださいです!」
エミリーがイザベラを庇うように前に立ち、皆に向けて両手を広げた。
「隠し事っていうのは、隠していたいからするものでございますですよ。誰にでも隠したいことの一つや二つありますです。こっそり弟のおやつ食べちゃったとか、妹の日記見ちゃったとか」
隠し事の内容がショボい。
「とにかく! そんな風に寄ってたかって質問したら話したくなくなりますですっ!」
後ろにいるイザベラに聞こえるくらい、大きくふんっと鼻から息を吐いて、両手を腰に当てると細い肩をいからせる。成人女性の中でも小柄なエミリーの背中が、大きくそびえたった。
「お、おう」
「そうですね」
「分かればよろしいですますっ」
たじろぐ大人にうなずくと、くるりとイザベラの方に向いて、少しだけ身をかがめた。
「お嬢様」
先ほどの声とはうってかわり、下から見上げるようにして、エミリーがふわりと優しく微笑む。
「言いたくないならですね、言わなくてもいいと思いますです。でもですね、言わないで心に溜めていたら、ずーっとここがモヤモヤしてすっきりしないでございますですよ」
手を伸ばしてきたエミリーが、とんとん、とイザベラの胸を叩いた。
「ここがモヤモヤしてると、笑えなくなっちゃうです。楽しくなくなりますです。お嬢様が笑えなくなったら悲しいでございますです。楽しくいてほしいって思ってますです」
青い目が柔らかく弧を描き、そばかすの浮かぶ頬が緩んだ。
「エミリー」
じぃん、と胸が温かくなった。
「お嬢様。私たちが信用できないでございますですか?」
イザベラは勢いよく首を横に振った。違う。信用している。
「良かった!」
エミリーの両手が伸びてきて、イザベラの背中に回った。ふんわりとお日様みたいな匂いと温もりがイザベラを包み込む。
ぎゅうっと抱きしめられてから。叱られることを怖がる小さな子供を諭すように、背中をぽんぽんとゆっくりと優しく撫でられた。
その振動で。
ぽろっ。水滴が一つ、頬を滑り落ちた。
「じゃあ、本当のことを言ったら怒られるって思ってますです? 今のお嬢様、妹が物を壊しちゃった時にそっくりですよぉ?」
イザベラの背中に手を回したまま、少しだけ体を離したエミリーが額と額をぶつける。こつん、とやるだけのつもりだったのかもしれないが、勢いがよくてゴツンという鈍い音がした。痛い。
「……」
額をじんじんさせて、少し迷った。怒られる、とは似ているけれど、別物だ。軽蔑されてしまったら、怒ることさえしてくれないかもしれない。
そもそも一度死んだだの前世がどうのだの、話したところで信じてくれるだろうか。
「そういう時ですね。うちのお父さんとお母さんは『怒らないから言ってごらん』って言うんでございますです。でもですね。正直に言ったら怒るんでございますですよ!! 怒らないって言ったのに。ずるいでごいますですよねっ?」
浮かべていた笑みを消して、エミリーがぷうっと頬を膨らませる。
「くすっ。そうね」
妹のことだと言っていたのに。自分のことのようにむくれているエミリーがおかしくて。イザベラはつい、笑ってしまった。
「えへへ。やっぱりお嬢様は笑ったお顔の方が素敵でございますですぅ」
へにゃりと顔を緩ませてエミリーが笑う。
エミリーの肩越しに見えるエヴァンとジェイダは、口を閉ざして静かにイザベラを見つめていた。
「お嬢様」
セスがおずおずと手を伸ばして、エミリーの腕から出ているイザベラの手を再度握って微笑む。
「何があっても、俺はお嬢様の味方ですから」
エミリーがひだまりなら、セスは寄り添う月だ。夜空から淡く、時に眩しいほどに照らしてくれる。
何度も何度も、イザベラに寄り添ってくれた。何度も何度も、イザベラのために命を賭けてくれた。
セスもエミリーも、イザベラを信じてくれている。
嫌われる、軽蔑されると決めつけて。
信じている、と言ったのに。本当の意味で信じていなかったのは、自分だった。
大丈夫。きっと見捨てないでいてくれる。
もしも見捨てられても、その時はその時。
大切なのは信じてもらうことではなく、信じること。
「今から話すのは、最低で、荒唐無稽に思える話なんだけど」
イザベラは深呼吸をして、語り始めた。




