58 自分なのに自分じゃない声
難しく考えるなって言われたって。
背中を押されたものの、セスはイザベラの手を取ることを迷った。
本音を言えば握りたい。手を握って大丈夫だと言って安心させたい。
ジェームスとアメリアの後ろ姿をじっと見送るイザベラの顔は蒼白だ。震える指を落ち着かせたいのか、握っては組み替えていたが、効果がなかったのだろう。軽く爪をかじった。
またあの癖だ。
ざわっと胸の中が、何かに撫でられた。
……また爪を噛んでいる。綺麗で傲慢で強いけれど、心が不安定な麗子さんの悪い癖。ドライで、経験豊富で、達観していて、男を手玉に取る悪女。だけど本当は、泣いてる子供みたいな人。
泣かないで。大丈夫。そう言って抱きしめてあげたいけれど、今の俺は彼女が憎んでいる男の一人でしかない。
水の中で聞いているような現実感なく流れた自分の声に、いらっときた。
何なんだ。そんなのただの言い訳じゃないか。臣下だとか、資格がないとか、身分とか言い訳にして。憎んでいる男でしかないって何。それで何もしないで、挙句に死なせたわけ?
ちら、とエヴァンとジェイダを見る。
黒縁眼鏡の下から、氷のような冷たい視線がセスを貫き、不快そうにきゅっと細くなる。隣のエヴァンは大きく口を三回、動かした。
その唇の動きを読むと。
へ・た・れ。
くそエヴァン! 後で覚えてろよ。
思い切り顔をしかめたセスは、エヴァンに向けて舌を出すと、イザベラの手を取る。そのままぐいっと引っ張って、噛んでいた爪を離させた。
「セス?」
驚いたのか、猫のようなツリ目が見開かれた。
ああもう、言い訳なんて知らない。エヴァンの言う通り、難しく考えないでおこう。だって自分はどうしようもなく子供なんだから。
「大丈夫です、お嬢様。お嬢様は俺が守ります」
根拠も形もない無責任な宣言をして、傍らのイザベラの目を覗いた。ぎゅうっと手を握る。
「駄目よ」
イザベラの青い目が潤んだ。いつもはきゅっと上がった目元が下がる。
「駄目なの。セス。私を守っては駄目。また貴方が死んでしまう」
「また?」
「……あ」
イザベラがはっとしたように口を押えた。
「なんでもない」
それから弱弱しく首を振る。
……そうだ。まただ。
彼女の顔を見ろ。同じ轍を踏むな。今回は彼女の前で死ぬな。自分を犠牲にしても、守るどころか絶望に突き落とすことになるだけだ。もうこんな顔をさせるな。悲しませるな。
分かってるよ、うるさいなあ。
「大丈夫。前とは違います。今度こそ死にませんよ」
前とは違うのだから大丈夫だ。そう思いながらセスは自分に問いかけた。
今回は何が違うのだろう。
まだ子供なこと。何も知らないこと。
それは普通、マイナスになってしまう条件だ。実際に子供の自分に腹が立つ。ジェームスには負けてしまうし。ジェイダみたいにビシッと言えないし。エヴァンのように丸く収められないし。
だけど悪いことばかりじゃない。エミリーという味方がいること。エヴァンという腹の立つ師匠がいること。ジェイダという厳しくて怖いけど背中を押してくれる人がいること。……一人じゃないこと。
「今回はエミリーさんもいます。ジェイダさんもいますし。認めたくないけどエヴァンもいます。俺一人の力じゃどうにもならなかったら、皆の力も借ります。特にエヴァンなんて普段あんなに師匠面してるんだから、どうにかしてくれなかったらキレてやります」
子供だから素直になれる。遠慮しないでいられる。我儘になれる。人に頼ることだってできる。
「ぶっはははは!! 言うようになったじゃないか、坊主!」
黙って見守っていたエヴァンが大きな笑い声を上げて、セスの頭をぐりぐりと撫でた。くると思っていたから足を踏ん張っていたが、あまりの勢いに少したたらを踏む。
「だからそれやめろって!」
不機嫌な声を出しながらも、セスはエヴァンの手を振りはらわなかった。本当は大きくて乱暴なこの手が嫌いじゃない。立場上はジェームスの護衛騎士。でも、味方になってやるという言葉に嘘はないと、いつの間にかセスは信じていた。
……また裏切られるのは怖い。でもだからって誰も信じないのは違うのかもしれない。それではきっとまた彼女を守れない。
「はいっ。私に出来ることでしたら何でもしますですよ! ね、ジェイダさん」
「当り前です。お嬢様に何かあればクビ。セスに何かあっても寝覚めが悪いですからね」
元気よく手を上げるエミリーと鼻を鳴らすジェイダには苦笑する。
「イザベラ嬢。これから行われるのはルールのある剣術大会です。殿下も無体なことは出来ません。それに坊主の腕は俺が保障します。もしも試合にかこつけて何かしようとしても、坊主なら大丈夫です」
「権力や圧力なら旦那様に相談も可能です。お嬢様は公爵家の大事な令嬢です。必ず守って下さいます」
頼もしく頷く大人二人と違い、エミリーが一人オロオロと激しく視線を往復させた後、両拳をぎゅっと握った。
「いざとなったら私だって、こう、けちょんけちょんにのしてやりますですよっ」
エミリーが鼻息も荒く握った拳をぶんぶんと振って、敵をやっつけるジェスチャーをしてみせると、イザベラがぷっと吹き出した。白かった頬に赤味が差し、表情も緩んでいる。
「ほらね、お嬢様。こんなに味方がいますよ」
「うん。そうね、セス。そうだわ」
震えの止まったイザベラの手が、セスの手をぎゅっと握り返してきた。潤んだ瞳で微笑む。
それから迷うように瞳を揺らした。
「まだ心配ですか?」
「ううん。違うの。あのね、セス」
「はい。何でしょう」
何度もセスの手を握り返したり緩めたりするイザベラに、セスは首を傾げた。
「前とは違う、とか。今度こそ、とか。今回はって何? もしかして思い出したの?」
「……え?」
動きと思考が固まった。
「そういえば。あれ、今度こそ死にません? 何だ、それ」
まるで一度死んだみたいじゃないか。
思い返して焦る。自然に湧いてきたから何の疑問もなく口にしていたけど、おかしい。あれは自分の声だったよな。
そもそもお嬢様の言っていたこともおかしかった。またセスが死んでしまうって何だ。それを疑問にも思わず普通に会話していたのはどうしてだ。それに。
セスは握っていない方の手で、額を押さえた。
確か、知らない人の名前を知っているように、しかもお嬢様と同一人物のように呼んだ。あれは、確か。
「……麗子さん? ……って、誰だ?」
その名を口にした途端に、イザベラがひゅっと息を飲んだ。
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