57 ジェームスの暗い眼差し
――ザザ――
……何だ?
重いような黒いような、ねっとりとした空気を感じて。セスはデイビッドとリアンに向けた右足にゆっくりと体重をかけた。木剣の柄にこそ手をかけていないが、臨戦態勢だ。
もちろん、二人がアメリアを守るように立つより前に、二人とイザベラの間の立ち位置に移動している。
アメリアに好意を持っている二人が、イザベラをよく思っていないのは知っている。それでも流石に危害を加えるようなことはしないと思っていたが。
今の二人ならやりかねない。そんな空気だ。
そんなことは絶対にさせない。
いつでも迎え撃てるよう、警戒していたところへ。
ゾクッ。
今度は背中にぞっとするような殺気がきた。
くそ。何なんだ。
目の前の二人から目を離さないよう、背後にも気を配る。
「それじゃあ、アメリア。応援、約束だよ」
二人はあっさりとアメリアに手を振って去って行った。重苦しい空気が緩み、セスは背後を振り返る。
殺気の主は、こちらに歩いてきたジェームス王子だった。木剣も置いてきたのか丸腰。手もだらりと垂らし、無防備に近づいてきていた。
攻撃しそうな構えも雰囲気もなく、ジェームスの甘いマスクには微笑みが浮かんでいる。一見、知人と世間話をしに来ただけという体で、おかしなところはない。ただ、目の奥だけが底抜けに暗く、深かった。
こんな目と雰囲気をする人だっただろうか。
セスは木剣の柄を握り直した。汗がじっとりと背中を濡らす。
学園ではもちろん、イザベラたちを助けに行った道中でも、試すような物言いや態度はあったものの、今のような暗く陰気な空気を抱えてはいなかった。
「アメリア。僕のお姫様。迎えにきたよ」
「ジェームス様」
ジェームスがとろけるような笑顔でアメリアに手を差し出した。刺すようだった殺気が緩む。
アメリアが頬を染めてジェームスの手に自分の手をのせた。
「でもまだ時間はあるでしょう? もう少しお話したいんですけど」
それから眉根を下げて、ちらりとイザベラの方へ視線を送った。
――ザザザ――
その名残惜しそうな様子に、ジェームスの暗い気配が強くなる。
聞き覚えのある雑音は、一度セスの中にも入ってきたものだ。もう一度ジェームスを見ると、まとわりつく黒い影とかすかに響く雑音があった。
黒い影と雑音をイザベラも見聞きしたのか。無邪気なアメリアと、緊張感のあるジェームスの視線にさらされたからか。イザベラの顔が強張った。軽く体の前で組んだ白い手が、小さく震えている。
あの手を握って安心させてあげたい。しかし臣下のセスがそれをするのは許されない。それに片手がふさがってしまえば、いざという時に守れない。
無力に歯噛みしながら、セスはイザベラの一歩前に立つ。アメリアに対して、いいから早く戻ってくれと苛立ったがそれを口に出すわけにもいかず、苛立つだけだった。
「アメリア様」
アメリアを護衛するエヴァンが、二人とイザベラの間に移動した。
「殿下はアメリア様がいないと落ち着かれないのですよ。なにせアメリア様は殿下の勝利の女神なのですから」
にっこりとアメリアに微笑みかける。
「まあ、エヴァン様ったら。勝利の女神だなんて言い過ぎです」
はにかんで謙遜したものの、まんざらでもなさそうにアメリアがうっすらと頬を上気させた。それが面白くなかったのか、眉をひそめたジェームスがくいっとアメリアの手を引いた。
「本当さ。君は僕の光で女神で、僕だけのお姫様なんだからね」
「ジェームス様」
腕の中に抱きこむようにして告げると、アメリアがうっとりと見上げてジェームスの名を呼んだ。恋人たちのふわりと甘い光景だが、セスにはどろりと濃い空気に思えた。
「さあ、戻ろう、アメリア。エヴァン。お前は残れ。ずっとセスの指南をしてきたんだ。弟子についていてやるといい」
「はっ」
胸に手を当ててエヴァンが騎士の礼を取る。
「すみません、イザベラ様。戻らせていただきますね」
「ええ」
笑顔のアメリアに会釈をされ、イザベラも微笑んだがぎこちない。
セスは二人が早く戻ってくれるようにと、イザベラの前で腰を折った。察したジェイダも同じように見送りの礼を取る。ジェイダに小突かれたエミリーもぴょこんと頭を下げた。
戻っていく二人を、全員で息を詰めて見送る。十分に離れたところで、エヴァンがセスの背中をぽん、と叩いた。大きな体を屈めて、ぼそりと囁く。
「坊主。手を握るのは今からでも遅くないぞ」
「そんなこと、使用人の俺が出来るわけないだろ」
セスの中で色んな気持ちが吹き荒れた。見透かされていた恥ずかしさ。さりげなくエヴァンに助けられた悔しさ。余計なお世話だという怒り。
エヴァンは何も知らないからそういうことが言えるんだ。シアーズ公爵家の令息という身分で育ってきたエヴァンは、平民どころかもっと薄汚い奴隷として育ったセスの立場を知らないから。
手を握ってあげられるなら。それが許されるのなら苦労はしない。
「そう言うと思った」
はあ、とエヴァンが溜め息を吐いた。
「あのな。お前が身分にがんじがらめにされて、余計な気を遣っていても、イザベラ嬢の幸せの役にはこれっぽっちも立ちやしないぞ。むしろ害だ」
「……害」
害、という言葉が胸を突いた。イザベラの為だと思っていたことが、実はイザベラの害になっていたのだろうか。
イザベラの我儘には全て逆らわなかった。決してイザベラよりも前に出ず、後ろから支える存在であろうと思っていた。イザベラが幸せなら、ジェームスとの婚姻だって祝福する。
出過ぎた真似はしない、してはいけない。そう教えられてきて、セス自身も心掛けていた。
だけど。それが害だったのだろうか。
……だから前回、お嬢様を守れなかった。前々回もそうだ。遠慮して彼女を見守ることしかしなくて。満足に忠告さえ出来ずに死なせた。
は? 前回、前々回って何だ?
ふっと胸に浮かんだ言葉にセスは戸惑う。
前回っていつのことだ。この間のモンスター騒動のことだろうか。でも、前々回に死なせたってどういうことだ。お嬢様は生きているのに。
意味が分からない。記憶を探っても、もやもやするだけだった。
「ガキなんだから、あんまり難しく考えるな」
「全く。少しはましな顔をするようになったかと思えば。ぐじぐじと悩んでみっともない」
内に沈んでいたら、左右から二つの声が降ってきた。慌てて見上げれば、落ち着いた青い瞳と冷たい薄青の瞳にかち合った。
「好きな女が不安がってるんだ。手くらい握って安心させてやれよ」
「使用人がどうのなんて言い訳無用です。見苦しい。さっさと行きなさい」
「わっ」
二人に背中を叩かれ、セスは一歩踏み出した。
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