44 意外な側面
クッションを受け止め損ねて倒れたエミリーが、後ろに倒れる。
ゴン。
後ろ頭を打った鈍い音が響いた。
「エミリー!」
倒れたエミリーに、イザベラは慌てて駆け寄った。
目を回したのか、エミリーは床に横たわったままぼうっとしている。
「エミリー、大丈夫?」
呼びかけて抱き起そうとするイザベラの腕を、ジェイダが掴んだ。
「頭を打ったのです。むやみに動かしてはいけません」
「あっ、そうか。そうよね」
確かにそうだ。気が動転して、やってはいけないことをするところだった。
どうしよう。どうすればいいのだろう。
頭を打った場合、真っ先に脳震盪、という言葉が頭に浮かんだ。
麗子の住んでいた日本なら病院に連れて行ってCT検査だ。しかし、この世界にそんなものはない。
この世界の医療が進んでいないわけではない。薬や医療器具などは、日本ほどではなくてもしっかりとある。麻酔手術や輸血などの技術もある。ただ、CT装置やMRI装置などの医療機器はないに等しかった。
「エミリー。聞こえますか」
「ほえ」
ぼんやりとした青い目が、ジェイダに向く。
「私が分かりますか」
うろたえるイザベラと違って、ジェイダはてきぱきとエミリーに質問していく。
「えーと、ジェイダ様……でございますです」
しばらくして青い目の焦点があった。途端にはっとした顔になり、慌てて起き上がろうするエミリーの肩をジェイダが押さえた。
「質問が途中です。まだ起きてはなりません」
「あっ、すみませんでございますです」
しゅんとして謝るエミリーに、しばらく動きを止めたジェイダが、口調を緩めた。
「……貴女が謝ることではないのですよ」
ジェイダの口元がほんの少し上に上がる。いつも堅くて咎めるような響きのある声に、優しさがにじんだ。
そのことにイザベラは驚いて、ジェイダをまじまじと見つめた。
礼儀にうるさく、融通のきかない堅物女だと思っていたけれど。
こういうところもあるんだ。
イザベラの視線に気づかないジェイダは、横たわっているエミリーの横で床に直接座り、ピンと背筋を伸ばしている。
「どうして倒れたのか分かりますか」
「お二人のクッションが当たったんですぅ」
「そうですね。私の不注意でした」
素直に非を認めてから、イザベラの方に視線を移して頷いた。
「どうやら大丈夫そうですね」
「良かった」
大丈夫だと聞いて、イザベラは胸を撫で下ろした。
「ごめんね、エミリー。痛かったでしょう?」
「痛いより、びっくりしましたです」
えへへ、と笑うエミリーにジェイダが手を差し出した。
「安静が一番の薬です。今日はもう休みなさい。ああ、ゆっくり起き上がるのですよ。イザベラ様。申し訳ありませんが私はエミリーに付き添います。何かありましたらお呼びください」
「えっ、大げさじゃないです?」
ジェイダに介助されて起き上がったエミリーが、落ち着かない様子で瞳を泳がせた。
「大げさなくらいでいいの、エミリー。何かあるよりよっぽどいいわ」
イザベラは頬を膨らませて、エミリーに釘を刺した。相変わらず無表情のジェイダもうなずく。
「念のため明日もゆっくりしていなさい。イザベラ様の世話は私がしておきます」
「でも」
「エミリー。命令よ。今日明日は休むこと」
イザベラとジェイダに言われても渋るエミリーの手を引いて、ジェイダが扉を開ける。
「今日のところは私も悪うございました。明日いっぱいまで、私は注意も指摘も致しませんが、その後は覚悟なさいませ」
感情の見えない眼鏡越しの瞳を見据え、イザベラはふう、と息を吐いた。
「分かった。一時休戦ね。でも……」
そこで言葉を区切ったものの、続きを言うのを少しためらった。直感は直感でしかなく、勘違いかもしれない。
「でも?」
ぴくっとわずかに眉を動かし、ジェイダが続きを促してくる。その横で、ジェイダとイザベラを見比べるエミリーの目が、もう喧嘩しないでと言っていた。
分かってる。喧嘩なんてしないから安心して。
イザベラはエミリーに向かって小さく微笑むと、肩を竦めた。
「貴女とは、思ったよりも上手くやれそうって気がしただけよ」
「そう、ですか」
返事は抑揚のないものだったけど、妙な区切りが入った。意表を突かれて動揺したのだろう。少し目を見開いてから、白い頬に赤みが差す。
「失礼いたします」
前よりも仏頂面になってから、退出した。
パタリ。
小さな音と共に二人がいなくなってしまってから、仕方なく自分でお茶を淹れる。
「なんだか美味しくないわね」
一人きりのお茶というのは味気ない。
エミリーは大丈夫だろうか。
隣のエミリーの部屋の方を見る。
頭を打った方は少し心配ではあるが、受け応えもしっかりしていたし大丈夫だろう。
それより今日はジェイダと二人きり。きっと気まずいだろう。そっちの意味で心配だったが、先程の彼女の様子だと杞憂に終わりそうだ。
音楽を奏でる魔具をかけ、柔らかいソファーに腰かけて天井を見るともなしに見た。思えば久しぶりに本当の一人の時間かもしれない。
麗子でいた頃は、ほとんどが一人だった。イザベラだって、侍女に怒鳴り散らして、追い出して一人。ああでも、そういう時はセスを呼んで、無理矢理側にいさせたのだったっけ。
どんなに怒鳴っても、八つ当たりしても怒らないで、にこにこと側にいたセス。
延々と続く愚痴を嫌な顔一つせずに聞いてくれた。
そんなの当然。セスは私が拾った奴隷なんだから。なんて思っていたけど、今思えば我ながら酷い。
お茶が不味いとぶちまけて掃除させたこともあったし。
そんなことをしてもムッとした表情も見せずに掃除して、それから笑うのだ。
どんなことをしても、嫌な面を見せても、柔らかく受け止めてくれたセス。時々笑顔のまま妙な圧力をかけてくるくらいで、セスが怒ったところをイザベラは見たことがない。
ちょっと見てみたいかも。
なんて思っていたら。
見たこともないくらいに不機嫌なセスが帰ってきたのは、この数時間後だった。
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