36 前世のトラウマ
目が覚めると、学園寮の自室だった。イザベラはベッドに寝かされていて、心配そうにこちらを見ているセスと、椅子に座ったまま眠っているエミリーがいた。
「大丈夫ですか、お嬢様」
ほっとしたように微笑むセスの頬には湿布が貼られている。口の端も切ったのか絆創膏。白い湿布と絆創膏から覗く、腫れた赤が痛々しかった。
「お父様は?」
「帰られました。お忙しい方ですから」
「そう」
イザベラは心底ほっとして、安堵の息を吐く。今トレバーの顔は見たくなかった。
「セスこそ、大丈夫?」
セスの腫れた頬に手を伸ばしたイザベラは、触れるか触れないかのギリギリで止めた。
痛そうで触れない、というのもある。けれど触れなかったのは、もっと違う理由だった。
セスに触れるのが怖い。
麗子は復讐しようと思った男たちに触れることに躊躇いなんてなかった。でも……そうでなかった裕助に触れられるのは怖くて、避けていた。
触れられて父親を思い出したくなかったから。裕助とろくでもない父親を重ねたくなかったから。
「平気です。慣れていますから」
そう言って、眉尻を下げて笑うセスが悲しい。
「慣れたって、痛いものは痛いよ」
――嫌い。嫌い。嫌い。
怒鳴り声も殴る手も酒臭い息も、全部嫌い。
なのに、本当に時折、「すまん」と謝って泣くのが一番嫌い――。
心の中に麗子の記憶と感情が渦巻く。
今の父トレバーがセスに振るった暴力は、麗子のトラウマを嫌でも呼び起こした。
痛い、怖い、悲しい、痛い、嫌だ、嫌い、痛い、痛い、痛い痛い痛い。
「泣かないで下さい。本当に大丈夫ですから」
「……え?」
セスの言葉に驚いて目を見開けば、ぽろりと滴が零れ落ちた。
「ごめんなさい」
いつの間にかイザベラの瞳は、涙でいっぱいになっていたらしい。うつむくと、涙がポロポロと落ち始める。
痛いのはセスなのに。駄目だ、止まらない。
「お嬢様が謝ることじゃないですよ。悪いのは俺です」
「違う! セスは悪くない」
悪いのは、トレバーを止められなかった自分だ。セスは何も悪くない。
「ごめんなさい、セス。ごめんなさい」
後から後から溢れる涙が嫌で、イザベラはぐいっと袖でぬぐった。それでも止まらない涙に、気分が余計に落ち込む。
「ごめんなさい」
こんなの、泣けば許してもらえると思っている女みたいだ。
泣いちゃいけない。
女の涙はズルい。女に泣かれると、大抵の男は白旗を上げるしかなくなってしまう。
「お嬢様……」
泣いて謝るイザベラに、セスの声が揺れた。伸ばしかけてはひっこめる手が視界の端に映る。
「イザベラ」
立ち上がったセスが、一歩近寄ってきた。もともと近かった距離がさらにつまる。
「セス?」
敬称抜きで名を呼ばれたこと。近い距離に立ったこと。そのどちらにも驚いて見上げると、真剣な表情のセスがいた。
「嫌だったら、言ってください。突き飛ばすなり張り倒すなりして下さって構いません」
嫌だったら突き飛ばす? 張り倒す?
言葉の意味を測りかねたイザベラが聞き返す前に、伸びてきたセスの手が後頭部と背中に回される。軽く引き寄せながら、セスがイザベラを腕の中にすっぽりと包む。
えっ、えっ、ええええっ? これって。
イザベラの頭の中から、何もかもがすっ飛んでしまった。驚きのあまり涙も止まる。
セスに抱きしめられてる!!
ただセスに抱き締められているという事実がイザベラを支配する。
かーっと体が熱くなって、心臓がバクバクと胸を叩いた。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
パニックになっていると、とくとくとく。イザベラの耳にセスの心音が届く。
……あ、セスの鼓動が早い。セスも緊張しているんだ。
どうしたらいいのか分からないのは自分だけではないのかもしれない。そう思うとイザベラの緊張と動揺が和らいだ。
「謝らないで下さい。泣かないで。イザベラのせいじゃない」
困った声のセスが、ぎこちなくイザベラの頭を撫でた。心地よさに瞳を閉じる。強張っていた肩の力を抜き、セスの胸に体重を預けた。
セスは同年代の男子よりも大きくて体格がいい方だと思う。武道をやっているから筋肉もついている。
やり直す前よりは小さいけれど広い胸板。服越しでもたくましさが分かる腕。
まだ幼さは残っているが、男の体だ。麗子の大嫌いな男の体。
でも、セスは嫌じゃない。
温かくて骨ばった体。力強い腕。優しい手つき。エミリーとは違う、なんだか落ち着く匂い。
その匂いに混じって、湿布のつんとした香りがイザベラの鼻に届く。
湿布の香りは顔よりも、トレバーに何度も蹴られていた腹の方が強かった。
途端に、押し寄せる安心感と嬉しくて幸せな気持ち。それらを押しのけるように罪悪感が盛り返してきた。
「すみません、お嬢様。俺はお嬢様の護衛騎士なのに守れませんでした」
「違う。セスは助けにきてくれた。守ってくれた。聖女の力がなければ、殺されていたのに。命を賭けてモンスターから私を逃がそうとしてくれたじゃない」
イザベラはセスの胸に顔を押し付けるようにして、首を横に振った。
何も出来なかったのは自分だ。結局聖女の力を使ってセスやエミリーの怪我を治してくれたのはアメリアで、モンスターを倒したのはセスとジェームス王子。イザベラは見ていただけ。どうしようもなく怒りが湧いて、ただ、アメリアにしがみついて祈っただけ。
神だか何だかの声が聞こえて、無我夢中で何かをやったような気はするけれど、正直あまり覚えていない。
「そうです。アメリア嬢の聖女の力がなければ俺は殺されていて、お嬢様を守れなかった」
背中に回されたセスの腕にきゅっと力がこもった。
「俺、もっと強くなります。今度こそお嬢様を守れるように、強く。もっと強く」
そう思ってくれるのは嬉しい。でも苦しい。
止まっていた涙がまた溢れてくる。後から後から出てきて、セスの胸元を濡らした。
もっと強くなりたい。前世を乗り越えて、トレバーに立ち向かえるように。
セスはずっと、イザベラを抱いたまま髪を撫でてくれた。
イザベラが泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっと。
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