23 逃げる準備
男が幌の向こうに戻ってしまうと、イザベラの体からへなりと力が抜けた。
うつむいて下を向けば、視界にあるのは揺れる床と自分の膝。だが、脳内に映る光景は全く別のものだった。
モリス伯爵。あの貴族にされた数々の仕打ち。
暗い地下牢。婚約破棄の時、冷たく見下ろしていたジェームス王子の顔。彼に寄り添っていたアメリア。
なぜ、どうして、という嘆きと深い絶望。黒い影。
それらの記憶がぐるぐると回っていた。
またあの地獄に戻る……。
馬車の揺れとは別に、視界が小刻みに揺れた。イザベラ自身が震えているからだ。
地下牢で味わったあの屈辱、痛み、恐怖。
そして……。
ふっと、イザベラの胸に小さな光が生まれた。
……そして、助けにきてくれた、セス。
セスことを思い出すと、震えが止まった。冷たかった指先に温もりが点る。
大丈夫。まだ自分は死んでいない。ここはまだ伯爵の屋敷じゃない。震えなくていい。暗闇に怯えなくていい。
「イザベラお嬢様」
震えを含んだエミリーの声に、イザベラは顔を上げた。
「私たち、どうなるんでしょう? このまま売られてしまいますですか?」
血の気の失った顔の中で、セスとは違う青い瞳が不安そうに揺れている。
「いいえ。大丈夫よ、エミリー」
なるべく優しく、安心させるように。
いつもセスがしてくれたように。
イザベラはエミリーに微笑んだ。
今回はセスとイザベラだけではなく、彼女も巻き込んでしまった。
アメリアだってそう。
エミリーがマリエッタに連れていかれるのを目撃しなければ。そしてそれをイザベラに知らせなければ。その後イザベラたちを案内しなければ。
彼女は巻き込まれなかったのに。
「モリス伯爵の屋敷に着く前に逃げればいいの。ね? 簡単でしょう?」
わざと明るく、何でもないことのように軽く言う。
セスが助けに来てくれるとしても、なにせこちらは馬車での移動。体感からすると、馬車はそう速く移動していないが、伯爵の屋敷に着くまでに追いつけるかというと微妙である。
追いつくことが出来なかった場合、護衛たちのいる伯爵の屋敷から、一人でイザベラたちを助け出すのは無理だ。
大人のセスでさえ、伯爵の屋敷からイザベラを助け出すことは出来なかったのだ。12歳の今のセスが、伯爵の元からイザベラを助け出せるとは思えない。
また失敗して、伯爵に殺されてしまう。目の前でセスが銃で撃たれて死んだ、あの光景が再現されてしまう。それは駄目だ。
それだけは阻止しなければ。
「でもでも。逃げるってどうやってでございますですかぁっ? 無理ですよぉ」
エミリーの青い目にみるみる涙が溜まって、そばかすの上を滑り落ちた。
「大丈夫。逃げる方法なんて山ほどあるわよ」
にんまりと悪い笑みを浮かべたイザベラは、両手を握って開いた。それを何度も繰り返す。
「ほらね?」
そうしているうちに、縄がゆるんで隙間が出来た。その隙間を利用して手首を抜くと、自由になった両手をひらひらと振って見せた。
「ええええええっ? お、お嬢様、どうやって抜けましたです?」
ぽろぽろとこぼれていた涙をぴたりと止めて、エミリーの目が丸くなった。
「しいっ。静かに。手を握ったり開いたりを繰り返せば縄がゆるむから。そこから手を抜くのよ」
唇に手を当てて咎めると、エミリーがばくんと口を勢いよく閉じた。無言でぐーぱーと手を開閉し始める。
しかしその顔がどんどん赤くなっていった。ぐうっと肩が上がって、頬がぷくっと膨らんでいる。もしかしてこれは。
「あのね、エミリー。静かにとは言ったけど、小声でしゃべればいいだけよ。息を止めなくても大丈夫だから」
ぷすっ。
半眼になったイザベラは、エミリーの膨らんだ頬に指を刺した。
「ぶぷっ! ぷはぁっ、はぁっ、はぁっ。ああ、そうでございますですよね」
えへへと恥ずかしそうに笑うエミリーを見ていると、なんだか一気に力が抜ける。
「全く。仕様がない子ね」
ため息混じりの言葉とは裏腹に、笑みがこぼれた。
エミリーのドジのお陰で、知らずに張りつめていた気持ちもゆるみ、空気が明るくなった。エミリーがいてくれて良かったと思う。
反面、彼女は絶対に無事に帰してやらないといけない、とも思う。
「さあ、縄から手を抜いて。ああ、駄目駄目。力任せに引っ張ったって余計に締まるだけよ。あざになってしまうわ」
こういう時も不器用さを炸裂するのがエミリー。忠告したのにさっそく小さな擦り傷とあざを作っていた。
四苦八苦してやっと抜けると、エミリーが目をキラキラさせた。
「抜けましたっ。凄い! 抜けましたですっ、お嬢様っ!」
声を抑えることを忘れてはしゃぐ。
「ちょっ、エミリー、しーっ。しーっ」
イザベラは慌ててエミリーを叱ると、素早く縄を結び直した。
「あれっ、お嬢様。せっかく抜けたのに何ででございますです?」
「いいからちょっと黙ってなさい! 分かったわね?」
自分の縄も結びたいところだが、時間がない。
エミリーがこくこくと首を縦に振るのを、確認するのももどかしい。さっと縄を手首にかけて、見た目だけ偽装する。
「おい! 何を騒いでいる」
幌が上がって男が顔を覗かせた。イザベラはボロを出しそうなエミリーにぴったりとくっついて隠すと、男の方へ顔を向ける。
「ごめんなさいっ……ううっ、ひっく。これからの事を思ったら、涙が止まらなくてっ……」
しゃくり上げながら眉尻を下げ、うるうると涙をためて、出来るだけ哀れっぽく訴えた。
「お嬢様ぁ」
みえみえの嘘泣きを真に受けたエミリーが鼻をすする。黙っているようにという命令を忘れているが、ナイスだ。
「ちっ。あまり騒ぐなよ」
舌打ちさいた男が幌の向こうに戻ると、イザベラはべーっと舌を出した。
「ふぇぇ、泣きまねだったでございますですかぁ」
「当り前でしょ」
涙は女の武器で、男は女の涙に弱い。疑われたり、まだ金を搾り取っていないのに離れそうな時など、大変重宝した。さらに上目遣いに胸元などをちらつかせればもっと効果的だが、今のイザベラは幼すぎる。
「いい? この結び方は輪っかになっていない部分を引っ張ると簡単に解けるから」
片方の縄だけを引っ張ると解けるのが一般的な結び方だが、エミリーの場合は間違って反対を引きそうだからどちらを引いても解けるようにしておく。分かったかと念を押すとエミリーが大きく頷いた。
「それにしても……はぁ、まさかこんな形で前世の経験が役に立つなんてね」
「はぃい?」
聞こえないように小さくため息を吐いてぼそりと呟けば、エミリーが首を傾げた。彼女に向かって小さく肩をすくめる。
「何でもないわ」
父親に縛られて放置された時こっそりと抜け出していたのだが、バレると殴られるから、よくこうやって誤魔化していた。それが役に立ったのだから、本当に人生何が起こるか分からない。
普通、この世界にない医療知識で成り上がりとか、仕事の経験を活かして財政再建、行政改革で領地のピンチを救うだとか、新しい発想で魔法を使いこなし最強になるだとかだろうに。
特殊な仕事に就いていたわけでもない。文明促進に貢献できるような知識もない。そもそも少し遅れてはいるものの、文明水準だってそんなに変わらなかった。
お陰で成り上がりやチートとは無縁のよう。まあ、それは元々期待していなかったのだからいいけれど。
今はそんなことより。
「そろそろ寝たふりをやめたら?」
イザベラはエミリーから視線を移動すると、床で寝ているアメリアに声をかけた。
「へっ? 私は起きていますですよ」
案の定、話しかけた相手ではなくエミリーが首を傾げる。
「貴女じゃないわよ……」
額に手を当て溜め息を吐くと、ぱちりと開いたアメリアと目が合った。
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