11 エミリーとの距離※挿し絵あり
「面白くないわ! どうして私が平民より下に見られなければいけないの!」
マリエッタは肩を怒らせ、大股でずんずんと校舎から出た。
今日はもう、気分が悪い。とてもではないけれど、授業を受ける気がしない。
最近のイザベラは変わってしまった。やたらとアメリアの肩を持って、逆にマリエッタたちには小言を言うようになった。
特に先ほどの苦言は納得がいかない。自分が平民よりも劣っているなどあり得ない。
むかむかした気分を抱え、寮に向かっていたマリエッタの足が止まる。
「あれは、イザベラ様の侍女じゃないの」
忌々しい平民の侍女。確かイザベラがエミリーと呼んでいた。
そのエミリーが、サンドイッチを片手にベンチに腰掛け、膝の上に本を広げていた。
片手に持ったサンドイッチをぱくつきながら、熱心に本を読んではぶつぶつと何やら言っている。何の本かと思えば、どうやら教科書のようだ。
イザベラに聞いたところ、あの侍女はまだ侍女見習いコースを選択しているらしい。どうりで言葉遣いはおかしいし、所作もまったく洗練されていない。
しかも、食事の最中に教科書を読むとは、なんて行儀の悪い侍女だろう。
やはり平民だ。なっていない。
「ふふん」
今は昼休憩が始まったばかりの頃。次の授業までは時間がある。
マリエッタの目が細くなった。寮に向かっていた足の方向を変える。
「貴族である私が『教育』してあげないと、ね」
マリエッタの口の端がきゅうっと吊り上がった。
****
「イザベラ様。セス様とデートしませんですか、デート!」
いつものようにナイトドレスに着替え、髪を整えてもらっているとエミリーが妙な提案をした。
「ふぇっ? 急に何を言い出したの?」
脈絡のない話題に驚いたイザベラは、思わず目を白黒させてしまった。
「イザベラ様の恋、応援しますですって言ったです。もう忘れちゃいましたですか?」
「あれは。違うって言ったじゃない。私はセスのことなんてなんとも思ってな……」
「あはは。そうやって誤魔化すところが可愛いですぅ」
反論が終わる前に、エミリーに額をつんつんと突かれる。
「むーっ。また子供扱いしてっ」
突かれた額を軽く押さえて、イザベラは頬を膨らませた。
エミリーとは着替えの度に二人きり。
最初は緊張していたエミリーも段々と気安くなってきた。イザベラもイザベラで、麗子の時もイザベラの時もあまり女友達というものがいなかったものだから、エミリーとの会話はちょっと楽しい。
イザベラよりも三歳年上のエミリーだが、おっちょこちょいであること、やり直しの経験のあるイザベラの精神年齢が高いこともあって、クラスメートよりも同年代の友人みたいだ。
エミリーとの距離が近くなることをセスも喜んでいて、最近では着替えの時間が終わってもすぐに来なくなっていた。
「だってイザベラ様。セス様の方を見ては、いっつも溜め息吐いてますですよ」
「ええ? うそ。そうなの?」
しまった。そんなに周囲にバレバレな態度をとってしまっていたのだろうか。だとしたらセスにも気づかれているかもしれない。
不安になったイザベラはエミリーを上目遣いに見上げた。
「あの、エミリー。…‥私がセスのことを好きなのってそんなに分かりやすい?」
イザベラが王子を好きだという誤解は解けていないままだけれど、セスの態度は以前と全く変わらない。
もし、セスがイザベラの気持ちに気付いていて変わらない態度をとっているのなら、イザベラのことなどなんとも思っていないということではないか。
そう考えると不安になったのだ。
「セス様が横向いてる時とか、セス様がお側から離れるたんびに溜め息ついてらっしゃるですますよ」
「えっ、うそっ」
「本当です。セス様は気付いてないみたいですけど」
「そうなんだ……」
セスが気付いてない。それはホッとするような、残念なような。なんとも言えない気持ちになってイザベラは自分の胸に手を当てた。
「やだ、イザベラ様」
髪を梳かす手をとめたエミリーが、まじまじとイザベラを見つめる。
どうしたのだろうとイザベラが首を傾げた次の瞬間、急に抱きついてきた。
「可愛いっ!」
「わっ、ちょっとエミリー」
エミリーにぎゅうっと頭を抱きこまれ、撫でまわされる。
「髪がぐしゃぐしゃになるじゃないっ」
「大丈夫。後で整えて差し上げますですぅ」
文句を言ってエミリーの背中を軽く叩いたが、ますますぎゅっと抱え込まれた。
イザベラはエミリーを同年代の友人のように思っているが、エミリーの方はイザベラを妹のように思っているらしい。丁度エミリーの妹がイザベラと同い年で、つんつんした性格なのだそうだ。
そのためか最近、よくこうやって過剰なスキンシップをとるようになってきた。
「もうっ。後で綺麗にしてよ」
「はいですぅ」
諦めて力を抜くと、エミリーの腕の力も弱まる。頭を撫でる手がゆっくりになった。
エミリーのスキンシップには、最初は面食らったものだけれど、嫌じゃない。エミリーの体は温かくて柔らかく、手は優しくて心地よい。
麗子もイザベラも、母親に抱き締められた記憶がない。覚えていないくらい幼い頃は、抱きしめてもらったことはあったのだろうか。それとも全くなかったのだろうか。それさえもよく分からない。
麗子の母親は物心つくかつかないかの時に出て行ってしまった。母親の記憶と言えば、ボストンバッグ片手に玄関の扉を開けて去っていく後ろ姿。他にも何かしらあったのだろうけれど、その後ろ姿だけが強烈に残っているだけだ。
イザベラの方は多くの貴族がそうであるように、母親ではなく乳母に育てられた。乳母は厳しく、時々会う母親はいつも乳母の報告を聞いては満足そうに頷くだけ。その目は乳母に向けられていて、イザベラはそんな母親と乳母を眺めていただけだった。
エミリーから聞く家族。それはとても賑やかで、目まぐるしくて騒々しく、カラフルで、愛しいもので。少し羨ましい。
もしも普通の家庭に生まれていたら。
平民の家に生まれていたら。
こんな風に誰かに抱き締めてもらえていたのだろうか。
無意識にイザベラは腕をエミリーの背中に回していた。素朴でふんわりと優しいエミリーの体温と匂いに思う。
本当の家族ってこんな風なんだろうか、と。
そんなことを考えて、優しく自分を撫でるエミリーの手を見る。ぼんやりと眺めていると、ふと一点に吸い寄せられた。上がった袖口から覗く腕に、青い腫れを見つけたのだ。
「エミリー、このあざはどうしたの?」
「はひぃ?」
イザベラの視線を辿ったエミリーが、しまったという顔をして袖を戻す。
「ああ、これは。えへへ。ちょっとぶつけちゃいましただけですぅ。ほら私、しょっちゅう転んだりテーブルとかドアにぶつかったりしてますですからぁ」
「本当にそそっかしいわね。気をつけなさい」
恥ずかしそうに頬を掻くエミリーに、イザベラは呆れて軽く息を吐いてから立ち上がる。
「痛くない? 冷やして押さえた方がいいわ」
麗子の時によくあざを作っていたから、対処法は分かっている。氷を取りに併設された小さな給湯室に向かった。
「こんなの大したことないですぅ、放っておいたら治りますですから」
「跡が残ったらどうするの。いいから、大人しく言う事を聞きなさい」
慌ててついてくるエミリーを片手で止め、冷氷の魔具から氷を取り出して砕いた。
「命令よ。ほら、腕を出して」
砕いた氷を布で包み、それを遠慮するエミリーに軽く振ってみせる。おずおずと出したエミリーの腕の、あざの部分に巻き付けた。
「氷が解けたらもう一度同じようにするのよ」
「ありがとうございますです」
布をぎゅっとと結んで顔を上げると、エミリーがじっとイザベラの顔を見ていた。
「何? また驚くの?」
軽く唇を尖らせると、笑顔のエミリーが首を横に振った。
「いいえぇ。私、イザベラ様がお優しいのは知ってますですから」
ちくり。
陽だまりのようなエミリーの笑顔に、小さな棘が胸を刺す。
違う。エミリーに優しくするのは、最悪のルートを回避するため。恩を売って、いい印象を植え付けているだけ。
「エミリー……わっ」
イザベラの鼻先で、ふんす、と勢いよく鼻から息を吐き出したエミリーが、両拳を握った。顔面すれすれをエミリーの拳が通過し、思わずのけ反る。
「これはますます、セス様との恋、全力で応援しますですぅ!! 旦那様がなんて言っても関係ありませんです。エミリー、頑張っちゃいますですよぉ」
エミリーの拳が、イザベラの間近を通って振り上がる。
ガン。壁の上部に取り付けられた収納棚の角に当たった。
「痛いですぅ」
「本当に、気をつけなさいよ」
涙目で蹲るエミリーのために、イザベラはもう一度氷を砕いた。




