9 解けない誤解
「あのね、セス」
「何でしょうか」
全ての授業が終わって学園寮に帰る段になり、ようやくイザベラはセスの誤解を解くため口を開いた。なにせ教室ではマリエッタたちの目がある。休憩時間も何かしらマリエッタたちが話しかけてくるものだから、何も言えなかったのだ。
「殿下とのことだけど」
「殿下とのことでしたら、お嬢様が俺に何かおっしゃることなんてないでしょう」
「うっ」
セスの返事が冷たい。あっという間に凍らされた心が、ぽきっと折れそうになった。しかしこれくらいでくじけてはいけない。
「あのね、セス。殿下は私の婚約者よ。それ以上でもそれ以下でもないの」
イザベラは正直な気持ちを伝える。ジェームス王子のことを称するなら、まさにそれだった。
婚約者。それ以上でも以下でもない。恋心なんてまったくない。好きではないし正直キモいが、まあ嫌いでもない。アメリアとさっさとくっついて、あっちはあっちで幸せになってほしいと思う。
「そうですね。あの方はイザベラお嬢様の婚約者でいらっしゃいます」
やけに婚約者を強調された。そのことにトゲを感じるのは気のせいだろうか。
「だ、だから殿下はただの婚約者で、殿下のことで胸を押さえていたんじゃなくて」
「俺に言い訳なんてされなくても大丈夫ですよ。あの状況で、切なそうになさる理由が殿下の他にありますか?」
ああああっ、やっぱり誤解してる。
イザベラは頭を抱えてその場にうずくまりたくなったが、ぐっと踏みとどまる。
ちらちらと周りを伺った。マリエッタは先に寮に帰った。他の生徒も近くにはいない。
よし、と拳を握る。
なにせ自分は死から舞い戻ったくらいなのだ。今さら怖いことなんてあるものか。
キッと顔を上げたイザベラは、ずい、とセスに近付いた。
「聞いて、セス!」
「はい?」
イザベラの勢いに押され、セスが怯んだように一歩退いた。冷たい表情が崩れて、いつものセスの表情に戻る。年相応の、焦った少年の顔にほっとした。
好きだと言ったら、セスはどんな顔になるだろう。戸惑うだろうか。迷惑に思うだろうか。
早鐘のように打つ心臓が痛い。でも、言わなければ誤解は解けない。
「あ、あのね。あの、私ね。殿下のこと……」
王子のことなどなんとも思っていない、だってイザベラが好きなのはセスなのだから。そう続けようとした矢先。
「お嬢様ぁ」
エミリーの声が割って入った。
よりによって、このタイミングで!
イザベラは小さく舌打ちをすると、廊下の角から姿を表したエミリーを睨んだ。
怒りのままに文句を言おうと口を開きかけたが。
びたん。
何もない廊下で転んだエミリーが、床にキスをした。
つくづくダメダメね、この子は。
爆発しかけた怒りが、ぷすんと抜ける。ある意味この子は天才かもしれない。
ええい、間抜けな侍女にかまけている場合じゃない。イザベラはきちんと言い直そうと、セスに向き直った。
「あれ?」
しかしそこにセスの姿はなく。
「大丈夫ですか?」
床に転んだエミリーに手を差し出していた。
「ありがとうございますですぅ」
赤くなった鼻を擦りながら、セスに手を引っ張ってもらってエミリーが立ち上がる。そんなエミリーのスカートをセスが軽く叩いた。
うう、羨ましい。ずるい。自分もあんな風に優しくしてもらいたい。
普段から色々として貰っていることは、棚にあげる。セスにはどれだけしてもらっても足りないのだ。
それに。自分以外の人間にも手を差し伸べるセスの優しさが誇らしく、同時に軽くショックを受けていた。
上がったり下がったり、熱くなったり冷たくなったり、うきうきしたり、ドロドロしたり。自分の気持ちがちっともコントロールできない。
「お嬢様」
「はいっ」
静かに呼ばれただけなのに、なぜかびくっと体が震えた。イザベラとセスを交互に見ながら、まだ鼻を擦っているエミリーが小さく首を傾げる。
「殿下のことがお好きなのは、わざわざ言って頂かなくても分かっておりますから」
振り向いたセスの表情は、柔らかかった。先ほどまでの冷たい表情よりも、余程まずい。セスがこういう顔をする時、暖簾に腕押し状態になる。イザベラの言い分を全て受け流し、聞いてくれないモードだ。
「ちがっ、だから違うって……!」
待って。誤解したまま納得しないでほしい。
イザベラは慌ててぶんぶんと首を横に振ったが、セスはにこりと笑って流してしまう。
「さあ、この話はもうおしまいです。戻りましょう」
セスが笑顔で話を終わらせる。その後何度も話題を戻そうとしたが、無理だった。泣きそう。
「……はあ」
ドレスに袖を通しながら、イザベラは溜め息を吐いた。
当然、着替えの間、セスは側にいない。いるのは侍女のエミリーだけだ。
いつの間に立場が逆になってしまったのだろう、とイザベラは思う。
イザベラは主人でセスが臣下。なのに振り回されているのはイザベラの方。セスの表情ひとつ、言葉ひとつに嬉しくなったり不安になったりする。
「申し訳ありませんです、お嬢様」
「……何が?」
着替えで乱れたイザベラの髪を梳かしながら、エミリーが謝ってくる。
何の謝罪か分かってはいるけれど、なんだか面倒で。イザベラは投げやりに聞き返した。
「セス様とのことでございますです。何か大事なお話をしていたんでしょう? 邪魔をしてしまいましたですね」
目の前の大きな鏡にはイザベラと、イザベラの長い髪を手際よくゆるっと纏め、少し太めの眉を申し訳なさそうに垂れさせているエミリーが映っていた。
そう。その通り。お前のせいでセスに告白しそびれたのよ。どうしてくれるの。
喉まで出かかった文句を飲み下す。しかし心の中のむかむかまで隠せず、鏡の中でイザベラの口がへの字になった。
「お話が何だったのか分かりませんですけど、イザベラお嬢様は婚約者の王子様より、セス様のことがお好きなんでございますですねぇ」
「なっ」
突然放り込まれた直球に、イザベラの唇があわあわと震える。
「ば、馬鹿なこと言うんじゃないわ。私がセスを好きだなんて、そんなことあるわけないじゃない」
ふふんと鼻から息を抜き、イザベラは口元の震えを止める。なんでもないわとばかりに片目だけを閉じて、不敵な笑みを浮かべてみせた。
マリエッタたちと違ってエミリーに本当の気持ちを知られたところでどうということはないのだが、なんだか負けた気がする。負けるのは嫌いだ。
「隠さなくても大丈夫ですよぅ。私、応援しますですから」
そんなイザベラの強がりはさらっと流される。
冗談ではない。おっちょこちょいのエミリーの応援なんてとてつもなく嫌な予感がする。
「隠してなんかないわ」
「ふふふ。こう見えて私、こういう時の勘は鋭いんですよぉ」
即座に否定したけれど、エミリーは笑うばかりで取り合う様子がない。イザベラのこめかみに青筋が立った。
「隠してなんかないって言ってるの! セスのことなんてなんとも思ってな……!」
コンコン。
「お嬢様、着替えは終わりましたでしょうか?」
セスの声だ。バッと、イザベラは自分の口を両手で押さえた。
「セス様、終わりましたです。どうぞ」
「失礼いたします」
いつも通りの表情で湯を持って入ってきたセスが、慣れた手つきで茶器を用意して紅茶を淹れる。
今のは聞こえてしまっただろうか。それとも聞こえなかったのだろうか。どちらなのだろう。
ことん、とカップを置くセスからはどちらなのか見当もつかなかった。
※※※※
しん、と静まった夜更け。エミリーは眠い目をこすりながら身を起こした。はだしのままベッドからおり、ぺたぺたと歩いて旦那様から預かった魔具を手に取るとボタンを押してから耳に当てた。
こんな時間だけれど、起きておられるだろうか。しかしこの時間を指定したのは他ならぬ旦那様だ。きっと起きているに違いない。
ドキドキしながら待っていると、プツンと繋がった音がした。
『エミリーか』
「は、はいぃ、エミリーでございますです」
魔具から聞こえてきたのは、厳しそうな中年の男の声。イザベラの父親、エミリーの主人だった。
『ふん。相変わらず敬語がなっていないな』
「も、申し訳ありませんです」
咎める声に身を縮め、エミリーはペコペコと頭を下げた。魔具越しなのだから、相手からエミリーは見えていないが、ついやってしまう。
『あのイザベラがまだクビにしてないのだから、まあいいだろう。どうやって取り入ったのかは知らないが、お前のような駄目侍女の方が好みだったのかもしれん』
イザベラお嬢様はそんなこと言わないのに。
駄目侍女という言葉がぐさりと刺さる。
家族はエミリーの失敗を仕方ないなぁと笑ってくれた。イザベラお嬢様もエミリーのことを駄目だなんて言わないのに。旦那様はそうはいかないらしい。
『風邪が治ったのはセスからの報告で知っている。それで、授業に復帰したイザベラの様子に変化はないのか』
「変化と言われましても、私はイザベラ様が風邪で臥せっている時に侍女になったばかりですから、分かりませんです」
侍女になる前、さんざん聞いていた噂とお嬢様はまったく違った。それが変化だったのか、元から根も葉もないうわさだっただけなのか、エミリーは知らない。
『ふん。そうだったな。では質問を変える。イザベラとセスだが、何か思う事はないか』
「え? 思う事、ですか? セス様はイザベラ様にとてもよくお仕えしておられて、私も見習いたいでございますです」
質問の意味が分からず、首を傾げた。
『ああ、アレには忠義を植え付けているからな。だがその忠義を超えるような事……そう、例えば二人のうちどちらかが、もしくは二人ともが好意を持っている、というような事だ』
アレ、忠義、二人ともが好意。旦那様がその単語を強調する。
「それは……」
好意、つまり好きかどうかなら、あの二人を横から見ていればよく分かる。
旦那様の質問に答えるべく、エミリーは口を開いた。
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