井戸の底の魚
彼が午睡を貪っていると、庭の方から子どもたちの声が聞こえた。
――ごらんなさいよ、井戸の底に赤いお魚がいるわ。
――嘘だい、井戸の中に魚なんていないよ。
――なぁんにも知らないのね。赤いお魚は井戸神様の御使いなのよ。ほぅら、こっちに来てごらんなさいよ。そりゃ綺麗なお魚なんだから。
大きく重量のある何かが、水の中に落ちる音がした。彼の目が、はっと醒めた。
「正、正が――」
慌てて跳ね起きると、庭を背にした幼い娘が、おかしそうに彼を見ていた。
眩しい夏の陽に照らされた庭がすぐそこにあるのに、部屋の中は醒めたばかりの目にも薄暗く、嫌に陰鬱に感じられた。
「お父様、今お目覚め?」
「そんな呑気なことを言っている場合ではない、正は無事か、今の音は正が井戸に落ちたのじゃないか」
「嫌なお父様。たぁ坊なら大丈夫よ」
「それなら良いが、正は今、何処にいるんだね?」
「井戸神様のお側にいるのよ。それだから心配はいらないわ、なぁんにもね」
彼がその言葉の意味を理解するのに、呼吸二つ分の時間が必要だった。
「何が心配いらないものか、すぐに人を呼んで来なさい」
叫ぶ彼に、娘はくすくすと笑った。
「今のお父様はおかしなことを仰る。可愛い子を一人、井戸神様に差し上げるのがこの家のしきたりなのに」
そのような馬鹿げた話がある訳がない、今すぐ息子を助けねば。
そう思うのに、彼は声を出すことも、指一つも動かすことも出来なかった。
そして、彼はようやく思い至った。
そもそもこの娘は何処の家の子なのか。随分前に嫁いで家を出た姉や妹に何処となく似た面差しの娘だが、自分はこの娘を知らない、と。
「ごらんなさいな、このずっしり重い袖を。随分昔のお父様がなさったのよ。私が絶対に戻って来ないように、迷わず井戸神様の元に行けるように。でももう、いらない」
そう言って、娘は赤い着物の袂から幾つもの石を取り出した。それから、その石を無邪気に積み重ねながら言った。
「井戸神様は、仰ったの。よくよく勤めた褒美に、次に可愛い子が来たら、お父様の元に帰って良いって。だから、たぁ坊に代わってもらったのよ」
「……正を、返してくれ、あの子は私のたった一人の子なんだ!」
「それだから、私が帰って来たのじゃありませんか」
彼は絶叫して目を醒ました。どうやら、旧友からの書簡に目を通しているうちに眠ってしまったらしかった。
「……何やら恐ろしい夢を見た気がするが、これのせいか」
枕元にだらしなく広がる書面には、癖のある旧友の手でこう書かれていた。
――由緒ある家は何処も皆、暗い因習を隠しているものであるらしい。
何を馬鹿な、と彼は一笑に付した。もしもそうであったなら、彼の学生時代の友人の実家の多くが、他所には言えぬ闇を抱えていることになるではないか。
大きく伸びをした彼の後ろから、娘の菊子が声を掛けて来た。
「どうなさったの、お父様。随分大きな声を上げていらしたから、吃驚してしまいましたわ」
女学校に上がって、以前よりも妻に似て来た娘に、彼は目を細めた。一年前に妻を亡くして以来、彼には菊子だけが唯一の家族であり、心の慰めであった。
「吃驚させて済まなかったね。一寸怖い夢を見たものだからね」
「まぁ、お父様ったら、まるで小さい人たちみた様なことを仰って。もうじきお夕飯ですから、お顔を洗っていらしたら?」
「ああ、それが良さそうだ」
彼はひぐらしの鳴く庭に出た。井戸は、生前の妻がしきりに怖いと訴えたので、数年前から手押しポンプ式に変わっていた。
彼は水を汲み、顔を洗ってさっぱりしたところで、急に辺りを見回した。
誰もいるはずはなかった。それが当然だった。
しかし、かえって彼の心臓は苦しいほど早鐘を打った。
彼の耳は確かに捉えたのだ、聞き覚えのある幼い声を。その声は確かにこう聞こえた。
――おとうさん。
彼の亡き妻は、もともと従妹でした。つまりは、そういうことです。




