*10*わたくしの不安な心
リーリエ視点のお話です。
その日は、皆の気持ちとは裏腹に雲一つない快晴だった。
窓辺から射す朗らかな陽気はリーリエの白い肌をより目映ゆく見せているし、庭園では庭師が水を遣っていて、色鮮やかな花々へと虹の架け橋を作っている。
リーリエは、謁見の間にいた。
壁や等間隔に並べられた柱は純白で、所々に金の装飾が施されている。それは、この場が如何に高貴な空間であるかを物語っているようだ。また、高い天井からは中央に大きな金色のシャンデリアが垂らされ、ぐるりと等しく蝋燭が並んでいる。床は石造りで、正方形の白と黒の規則性が美しく、中央には赤い絨毯が真っ直ぐに敷かれていた。
リーリエは、いつも以上に華やかなドレスを纏っていた。彼女は体の線が浮かない程度のドレスを好んで着用しているが、今は上半身をコルセットでしっかり固定され、薄桃色のふわりとした衣装に身を包んでいる。髪はミリアによって左右から丁寧に編み込まれ、後ろで一つに纏められていた。
「お父様、もうすぐですわね」
「ああ、そろそろだろう」
レオパルドは、この部屋の上座に鎮座していた。
彼は濃紺色の正装であった。両肩には金糸の肩章が装着され、左右へと飾緒がつるされている。また、斜めにたすき掛けされている赤いものと、左胸にあるいくつかのメダルが勲章の多さを示している。いつものように付けられているマントでさえ、誇り高さを窺わせていた。
けれどレオパルドはいつもより顔が固く、その表情に明るさはない。
「緊張しておりますか、お父様?」
「まあ、多少はな……」
「ふふっ」
リーリエは、普段あまり見ることのない父の顔に少し可笑しくなる。
彼女は、昨日まで寂しさと悲しさで打ちひしがれていた。涙が枯れてしまうのではないかというくらいに泣いて、昨日一日ほとんど私室から出ることは無かった。
そのおかげで、今朝は目の周りが真っ赤に腫れてしまっていた。それを慌てて冷やし、ミリアの化粧技術で何とか事なきを得たのだ。
――まだ寂しいですけれど、お姉様の輿入れという晴れ舞台ですもの……。それに、あと5日はアルダンに居て下さる。たくさん思い出を作りたいですわ。
突然やって来ることになってしまった従姉との別れは、そう簡単に受け入れられるものではなかったが、これからやって来る者と彼女の幸せを願おうと、気持ちを切り替えようとしていた。
――あ……。
その時、リーリエの視界に愛しい者の姿が映る。
「お兄様。おはようございます」
リーリエは、入り口の方からこちらへやってくる兄の姿を見つけて、小走りで駆け寄った。自然と笑顔になって、声も自ずと明るくなる。彼の姿が傍にあるだけで、リーリエの心は温かくなった。
リオンは、いつものようにクライドを従えてやって来た。
今朝は皆、それぞれ準備のため朝食は各自でとっていたのだ。そのため、皆に会うのは今日は初めてになる。リーリエは、今朝の慌ただしさにより朝食を口にする事はできなかったが、何か口にしたいという気は全く起きなかった。
リオンは、レオパルドと同じ濃紺色の正装だった。両肩には金糸の肩章と飾緒、左胸にはいくつかの勲章が提げられている。背格好や目線の高さも似通っているので、隣に立てば兄弟のようにも見える。
「ああ、おはよう」
彼は控えめに微笑んだ。そして、ぽんぽんと二回頭を軽くたたいた。
――お兄様……早く抱きしめて……。
「では、父上にも挨拶してくるからな」
そう言いながら、リーリエの横を通り過ぎて行ってしまった。
「え……?」
思わず、前へ出そうとしてしまった両腕を胸へと引っ込めた。信じたくない事実に、無意識に目を大きく見開いてしまう。
――今日は、抱きしめて下さらないのですか……?
あまりのショックで呆然とする。
胸の真ん中が、ぎゅっと何かで押しつぶされたように苦しい。
自ずと眉間に皺が寄り、周囲の雑音が遠くなっていく。
目の前が真っ暗になってしまいそうだった。
――お兄様どうしてですか……? いつもの様に抱きしめて……。
リーリエたちの日課だった抱擁は、おあずけを食らうことになってしまった。
兄はいつものように挨拶して、いつものように微笑んでくれた。
けれど、リーリエは彼に抱きしめてもらうことを何よりも期待していた。彼の体温や匂い、息遣い、心音……。全てをその肌で感じたかった。
彼がリーリエを溺愛しているという事が、例え”妹”であっても良かったから、抱きしめてくれる事だけはして欲しかった。
「あれー? さすがのリオン様も今日は気を張っているんですかね? ねえ、リーリエ様?」
突然彼の護衛騎士から話し掛けられ、リーリエは現実へと引き戻される。
「あっ……、おはようですわ、クライド。ええ、そうですわね……。きっとお兄様も、今日は緊張していらっしゃるのかもしれないわね。あのお父様が固くなっていらっしゃるくらいですもの」
リーリエは、自らの動揺をクライドに知られぬよう努めて平静を装った。いつものように微笑んではみせたが、口元が硬くなってしまったかもしれない。
それに、それは自分自身に言い聞かせた言葉でもあった。
「おはようございます、リーリエ様」
彼は、ニッと笑い話を続ける。
「ええ、そうかもしれませんね。先程お部屋から出てこられた時も、大事な眼鏡を掛けてくるのを忘れていましてね。俺が指摘したら慌てて取りに行かれてました。なんだかボーっとされていて。多分、リオン様もローザリカ様がいなくなってしまうのが寂しいんではないでしょうか?」
「あ……」
リーリエはハッとする。
――そうだわ……。いくらこの数年あまり仲がよろしくないとは言っても、お兄様だってお姉様が出て行かれたら寂しいのは当然ですわ。
わたくしったら自分の事ばっかりで……。
彼女は、自己中心的な自分の気持ちを反省した。
――「リーリエ」
その時、クライドの向こう側から優しく落ち着いた声が聞こえた。
「あ……お姉様……」
クライドの背後に立っていたローザリカは、とても美しかった。
彼女の後ろの方には、アレクシスとミゼリカ、それに彼らの護衛騎士であるエルネストとジョルジュも見えた。
エルネストは長身な体躯に適度に付いた筋肉、茶色の髪と瞳を持ち、見目の良い容貌をしているため、密かに侍女たちからの人気を集めている騎士である。けれど、当然ながらその腕は折り紙付きだ。
対するジョルジュは灰色の髪と瞳を持った平均的な体付きで、どちらかと言えば線が細い方だ。だが、それを逆手に取った機動力に定評があり、状況判断に優れている。
気を利かせたクライドは、レオパルドの斜め前の壁際に控えているミリアとダインの元へ向かった。
普段赤いドレスを好んで着ているローザリカは、今日は雰囲気が変わる水色のドレスに身を包んでいた。肩から豊かな胸元までを大胆に披露しているデザインは、体形の良い彼女にとても良く似合っている。
片側で一つに纏められた髪は流れるように下ろされ、簡素だが彼女の白い肌を惜しげもなく晒す事が出来ている。髪や耳、首、腕など、あらゆるところに煌びやかな装飾品を身に着けていた。
「とても、綺麗です……」
「ありがとう、リーリエ」
リーリエは素直な感想を零す。それは、思わず見惚れてしまう程の麗しさだった。
ローザリカは、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「わたしはここまでしなくていいって言ったのよ。なのに侍女たちが、”旦那様との初対面なのですから”って張り切ってしまって……。なんだか、これから直ぐに出て行くみたいよ」
「もう……」と彼女は苦笑いした。
「とりあえず、陛下にご挨拶に行くわね」
「はい」
リーリエは彼女と共にレオパルドの元へ向かおうと、くるりと踵を返した。
直後――――
バチッ
「え?」
レオパルドの傍にいたリオンと、目が合ったような気がしたのだ。
けれど、彼は直ぐにふいっと顔を逸らせてしまった。
――気のせいかしら……?
「リーリエどうかした?」
「あ、いいえ。何でもございませんわ」
「帝国オチェアーノより、クリスティアン第三皇子がご到着されました!!」
その直後、背後にいた兵士から”旦那様”の到着が知らされ、リーリエとローザリカは足を止めた。
「そうか……。ではここへ!!」
レオパルドは、兵士たちへ彼をここまで案内するよう指示した。
「あ、お姉様いよいよですわね」
「そうね。どのような方なのかしら。やっぱりちょっと緊張するわね……」
彼女の表情は、いつもより硬く見えた。
「ええ、実はわたくしもなのですわ。お姉様の旦那様が、優しくて素敵な方なら良いのですけれど……」
「ええ。それに容姿の整った方だったら尚のこと良いのだけれど。ふふっ」
「そうですわね」
リーリエは、「くすっ」と笑みを浮かべた。そして、このような何気ないお喋りも大事にしたいと思う。
――お姉様と共に過ごす時間を、一分一秒でも大事にしたいのです。
「お待たせ致しました。第三皇子、ご案内致します!!」
兵士の掛け声の直後、入口から正装に身を纏った人物が入ってきた。
「皆様お初にお目にかかります。オチェアーノ第三皇子クリスティアンでございます」
彼はやって来た――――




