第五十五話 新旧の矜持
村瀬が、火野正種と佐治政勝を呼びに走った後――
秀政は、阿坂城包囲陣の奥に残った。
向かう先は、一つしかない。
粗末な小屋。
二重の警護。
そして、中にいるのは――
今、この軍の“心臓”とも言える男だった。
*
小屋の中は、相変わらず血と薬草の匂いが濃かった。
秀吉は、浅く息をしながら横たわっている。
顔色は悪いが、意識は保っている。
秀政は、薬師と世話役の動きを一通り眺めてから、
小さく息を吐いた。
(……まずいな)
率直な感想だった。
(こいつら、不潔すぎる)
戦国の常だ。
傷は「運」。
治るかどうかは、神仏次第。
だが――
それで死なれては困る。
秀政は、一歩前に出た。
「……聞け」
低く、だがはっきりとした声。
「俺は、南蛮医術を少しだけかじったことがある」
薬師が顔を上げる。
「今日から、この場の手当は、俺の指示に従え」
「な、何を……」
遮る。
「いいから、黙って聞け。
――絶対に、俺の言う通りにしろ」
空気が張り詰めた。
*
秀政は、次々と指示を出す。
「まず、傷に触る前に、手を洗え」
「井戸水は、そのまま使うな。
一度、煮沸してから冷ませ」
「布は、必ず煮てから使え」
「汚れた布は、すぐ交換だ。
“もったいない”は、ここでは禁句だ」
薬師が眉をひそめる。
「秀政殿……
なぜ、布を煮るのです?」
秀政は、少しだけ言葉を選び――
そして、正直に答えるのをやめた。
「……汚れを落とすためだ。
それ以上でも以下でもない。
傷に悪い」
納得は、していない顔だ。
薬師は、いつものように薬草を塗ろうとする。
だが――
「待て」
秀政は、その手を止め、
煮沸した布を取って、傷口を丁寧に拭った。
「な、熱湯で布を煮るなど……
聞いたことが――」
「良いから黙ってろ」
短く、切り捨てた。
理屈は要らない。
結果が出れば、それでいい。
(理屈が分からなくても、
“秀政のやり方だと化膿しない”
それだけ分かれば十分だ)
「そのようなこと、時間の無駄かと……。
今は一刻も争います」
秀政が答えようとした、その瞬間だった。
「黙れ!」
鋭い声が、小屋の空気を裂いた。
秀長だった。
「兄者の命が懸かっておるのだ。
芋粥殿の言う通りにせよ!」
薬師は息を呑み、思わず手を止める。
秀長は秀政の方へ向き直り、深く頭を下げた。
「兄者はいつも言うておった。
芋粥殿に任せれば何とかなると。
……芋粥殿。
どうか……兄者を……」
秀政は短く頷いた。
「任せろ。秀吉はここでは死なせん」
秀長は唇を噛みしめ、震える声で応えた。
「……頼み申す」
*
秀政は、さらに気を配る。
(戦国じゃ軽視されがちだが……
安静と体温管理は重要だ)
布団を一枚、二枚と重ねる。
「体を冷やすな」
汗をかけば、すぐに着替えさせる。
「濡れたまま放置するな」
水は、一気に飲ませない。
「少しずつだ。
喉を湿らす程度でいい」
呼吸を、注意深く見る。
(……浅い。
姿勢を変える必要があるな)
秀政は、秀吉の上体を少しだけ起こした。
「……何をしておる?」
掠れた声。
「呼吸を楽にする」
枕の高さを調整し、
傷口に負担がかからぬ姿勢に整える。
寝返りも、放置しない。
「……秀政殿」
薬師が、戸惑いながら声を掛ける。
「そこまで、気を遣うものなのですか?」
秀政は、即答した。
「痛みが増せば、治りも遅い」
それだけだ。
*
さらに、食事。
(戦国じゃ、“食えるだけ食え”が普通だが……
それは逆効果だ)
秀政は指示する。
「粥を用意しろ。
薄めでいい。
少量ずつだ」
「まずは水分補給を優先しろ」
「熱が高い間は、無理に食わせるな」
「回復してきたら、
肉や豆で、力を付けさせる」
誰も、完全には理解していない。
だが――
誰も、逆らえなかった。
*
薬師に向けて指示した。
「何を呆けておる。
これは下準備だ。
薬草はお前の仕事だろう。
艾葉は揉んで汁を出し、
薄く当てよ。
厚く盛るな、熱がこもる」
「は、はい」
「十薬を煎じて湿布にせよ。
さっきの通り、洗ってからだ。
汚れたまま貼れば毒が回る」
「はい」
「黄柏を煎じて塗れ。
これは熱しすぎるな。
温い程度でよい」
「……はい」
秀吉は、薄く目を開け、
かすれた声で呟いた。
「……芋」
「何だ」
「お主……
戦より、薬師の方が向いとるんと違うか……」
秀政は、鼻で笑った。
「昔、本で読んだだけだ。
お前は黙って治せ。
百二十万石の約束を忘れたか?」
秀吉は、かすかに笑った。
「……また、増えとる」
秀政の手厚い介護により、
少しずつ秀吉の状況は改善の方向に向かった。
*
四日後、村瀬が火野正種と佐治政勝を連れて戻って来た。
二人は急な出陣に驚いていたが、
芋粥家臣らしく、
侍として恥じない立派な鎧を着込んでいた。
かなり派手だ……お悠の仕業に違いない。
二人は、それぞれ得物を携えていた。
火野は重銃、佐治は強弓。
「よく来てくれた。
急ではあるが、初陣だ。
お前達は、敵の武威である、
弓名人の大宮景連を討ち取ってもらいたい」
「大宮景連、名を聞いたことがある」
佐治が呟いた。
「名のある武将だ。
火野、お前が仕留めろ」
「殿、それがしを信じて頂けるのは
ありがたいんですが、無理でござる。
弓の方が圧倒的に射程が長い。
鉄砲では弓の名人を撃ち抜けぬ」
「知っている。
知っていて、言っている。
だからこそ、少し手間をかける。
そのために佐治を呼んだ」
火野と佐治が不思議そうに秀政を見つめる。
「火野、確実に一撃で仕留めるとしたら、
何間まで近づく必要がある?」
「三十間。
敵将は櫓にいる。
高い敵には伏射はできん。
ゆえに確実に仕留めるなら三十間だ。
三十間であれば外すことは――
万に一つもない」
その話を聞いた佐治が少しだけ自慢げに割り込んだ。
「弓であれば三十五間でも、俺なら必ず当てる。
大宮景連であれば四十五間でも百発百中ぞ。
弓を旧武器と侮るなかれ。
撃つ前に火野殿が射抜かれる」
鼻で笑った後、秀政が反論した。
「別に正面きって火野が撃ち合うわけではない。
何のために、佐治、お前を呼んだと思うのだ」
「どういう意味で?」
「鉄砲は木々に隠れて三十間まで近づいてから狙うのだ。
それが狙撃だ」
「ですから、近づく前に射抜かれると申しております」
「佐治、お前、五十間まで矢が届くか?
当てる必要はない。
櫓まで届けばよい」
「届くだけであれば何とか。
当てられるかはさすがに自信がございませぬ」
「良い。
火野が隠れて近づくまで、
佐治、お前が大宮と矢合戦をするのだ」
「矢合戦?」
「あぁ、大宮は弓に絶対の矜持を持っている。
そこに若者が挑んできたらどうだ?
しかも五十間を引く剛腕だ」
「堂々と名乗りを上げて、撃ち合え。
火野が三十間まで近づき、狙いを定めるまでな」
(戦場での娯楽イベントだ)
「……五十間なら大宮景連なら、
当ててくるやもしれませぬ」
「そこは心配するな。
村瀬が全ての矢を斬り落とす。
それを信じて、何度も撃ち抜け」
「……うーむ」
「怖いのか?意外と肝が小さいな」
「こ、怖くはありませぬ!
あの大宮と打ち合う、
武者震いでござる!」
「村瀬、全ての矢を切り落とせるな?」
「無論、造作もない」
「火野、隠れて近づけるか?」
「山歩きは得意です。
目を反らしていただけるならやれます」
「佐治、お前の初陣にして大一番だ。
やるか?」
「やらない理由がない!
俺の名を轟かせてみせます!」
「良い返事だ。
新旧の武器、
鉄砲と弓のそれぞれの矜持を見せてみよ」




