第五十四話 沈黙の陣
阿坂城。
城は――
まだ、落ちていなかった。
裏道を通したことで、
兵站、北伊勢衆からの軍事支援は、
万全であり、万に一つも、
滞る要素は存在しなかった。
今なお、必要な物資は必要な時に、
入手することが可能で、
秀吉の力量があれば容易な城攻めのはずだった。
だが、城壁の外には、
相変わらず大軍が展開している。
そして、その布陣は、
どこか不自然だった。
城から百間以上、
異様なほど距離を取って陣が敷かれている。
(……近づいていない)
秀政は、馬上から一目見て気づいた。
包囲している。
だが、圧を掛けていない。
本来なら、
もっと前へ詰めるはずだ。
槍も、盾も、声も――
城を呑み込む距離まで。
それが、ない。
代わりにあるのは――
沈黙だった。
*
兵たちは、
声を潜めている。
鍋の音も、
笑い声も、
雑談すら聞こえぬ。
ただ、
乾いた風が、
旗を鳴らす音だけがある。
(……おかしい)
秀政は、馬を進めながら、
兵の顔を見た。
誰も、目を合わせない。
視線は伏せられ、
何かを避けるように、
地面か、城壁の一点を見つめている。
まるで――
喪に服しているかのようだ。
だが、戦は終わっていない。
城は、
まだ立っている。
(これは……)
確信が、胸に落ちた。
(まさか、本当に秀吉が……)
*
陣中を進むと、
ひそひそとした声が、
断片的に耳に入る。
「……藤吉郎様が……」
「しっ……声を落とせ」
「間者が居るかもしれん……」
秀政は、歩みを止めずに聞く。
別の場所では――
「藤吉郎様は、手当て中だ」
「まだ、息がある……らしい」
「大殿に知られるな。
絶対にだ」
言葉は違えど、
一つだけ共通している。
――誰も、「死んだ」とは言わない。
(言えない、か)
死んだと知れ渡れば、
この軍は崩れる。
木下秀吉は、
もはやただの将ではない。
ここまで、
無理を通し、
無茶を形にし、
兵を前へ引っ張ってきた男だ。
その男が倒れたと知れれば――
阿坂城どころではなくなる。
だから、
上は情報を徹底して伏せている。
(所在すら、隠しているな)
*
秀政は、
陣の奥を見渡した。
一角だけ、
異様に人が近づかぬ場所がある。
粗末な小屋。
だが、
その周囲には、
二重、三重の警戒が敷かれていた。
近づこうとする兵に、
鋭い声が飛ぶ。
「立ち入り無用!」
「下がれ!」
「命令だ!」
兵は、
何も言わずに引き下がる。
その背中から、
不安と恐怖が、
はっきりと滲んでいた。
(……やはり、あそこか)
秀政は、馬を止めた。
地に降り立つ。
その瞬間――
周囲の兵が、
一斉に息を詰めたのが分かった。
誰も声を上げない。
誰も近寄らない。
秀政が外部の者と分かっている。
信長の使者かもしれないとさえ、
思っている。
ゆえに平静を装おうとしている。
(……間違いない)
秀政の胸に、
冷たいものが走る。
(秀吉討ち死に――
本当か?)
*
その時だった。
「……芋粥殿」
低い声が、
背後から掛けられる。
振り返ると、そこにいたのは――
堀尾吉晴。
そして、その横に、蒼白な顔の男が立っていた。
木下秀長である。
疲労が、
その顔に色濃く出ている。
秀長の目の下には深い隈。袖には血が乾いて黒く染みついている。
それでも姿勢だけは崩さず、必死に気丈さを保っていた。
「確か、吉晴殿に、秀長殿……」
吉晴は、
周囲を一度見回し、
小さく頷いた。
「こちらへ」
多くは語らない。
だが、
その一言で、
すべてを悟らせるには十分だった。
秀政は、
黙って後に続く。
*
三人は、
警戒線を越える。
兵が道を開くが、
視線は鋭い。
誰一人、
秀政の顔を見ようとしない。
小屋の前。
警護は、
明らかに精鋭だった。
堀尾が短く告げる。
「芋粥殿だ」
一瞬の逡巡の後、
道が開かれた。
中へ。
*
小屋の中は、
薬草の匂いと、
血の臭いが混じっていた。
床には、
血に染まった布。
積まれた包帯。
薬師が二人、
必死に手を動かしている。
そして――
奥から、
かすかな、
だが確かに生きている音が聞こえた。
「……う……」
呻き声。
秀政は、
一歩、踏み込む。
そこに――
いた。
木下秀吉。
かつて、
誰よりも大きな声で笑い、
誰よりも前へ出ていた男が。
今は――
蒼白な顔で、
血に濡れ、
息をするのがやっとの姿で。
(……生きている)
その事実に、
秀政は、
知らず拳を握っていた。
小屋の中で秀吉を見つめる秀長は、
唇を噛みしめながら、かすれた声で言った。
「……芋粥殿。兄者は……まだ死んでおりませぬ。
息は浅いが……生きております」
その声は震えていたが、必死に抑え込んでいた。
秀政は秀長の肩に手を置いた。
「秀吉はここでは死なん。俺が死なせん」
秀長は、涙をこらえるように目を伏せ、深く頷いた。
堀尾吉晴が続ける。
「……殿は、今も戦っておられる。
傷は深いが、致命ではござらん」
秀政の視線は、
ただ一人――
瀕死の秀吉に向けられていた。
――ようやく秀政の表情が緩んだ。
(……秀吉)
秀政は、
静かに息を整える。
(思い出したぞ……。
阿坂城、秀吉が生涯唯一、
戦で大怪我を負った地だ。
歴史が正しければ……。
お前はここでは死なん!)
秀政は、床に伏す男の顔を覗き込み、
なるべく冷静に声をかけた。
「秀吉……無事か?」
秀吉は、半開きの目で天井を見つめたまま、鼻で笑った。
「あ?……芋か。不覚じゃ。
射られた。
……痛ぇのぉ」
その声音は弱々しい。
だが――意識は、はっきりしている。
「無事そうだな」
秀政がそう言うと、秀吉は、
わずかに口角を上げた。
「わしはな、
神仏に気に入られとるでの」
一度、息を整え――
下品とも言える冗談を、平然と吐いた。
「急に屁を催してな。
こう……けつを向けて
でけぇのを、ぶりっとこいたんじゃ」
薬師が、思わず笑いかけて手を止める。
「ほれ、その拍子に矢が逸れてよ。
心の臓じゃなく、脇じゃ」
掠れた声で、続けた。
「屁がなけりゃ、
今頃、ど真ん中貫かれて、
とっくに死んどるわ」
本気とも、強がりとも取れる言い草だった。
秀政は、苦く笑う。
「あぁ……お前らしいな」
「芋」
秀吉は、少し真面目な目になった。
「これはな――
わしの、最初で“最後の”戦傷よ。
もう、二度と負けん……
……二度とやられん!」
「……そうだな」
「うぅ……しかし、
最初で最後の傷で、
死ぬこともあるか?
それは嫌じゃぁ」
その言葉の直後。
限界が来たのか、
秀吉は苦しげに眉を寄せ、
目を閉じた。
「……ぅ……」
小さな呻き。
秀政は、即座に声を落とす。
「……無理をするな。
お前は、ここでは死なん」
言い切った。
その断定が、
逆に秀吉の呼吸を乱したのか、
彼は再び目を閉じたまま、黙り込む。
*
その様子を、静かに見ていた男がいる。
竹中半兵衛だった。
彼は一歩前に出て、
低い声で告げる。
「……芋粥殿。
木下隊は、もう――
退くしかないと考えております」
秀政は、即座に首を振った。
「待て。
力攻めが無理なのは分かる」
視線を半兵衛に向ける。
「だが、木下軍は調略が得意だろう。
諦めるな。
ここで秀吉が功を積まねば……
俺が困る」
「え……?」
「いや、何でもない。
秀吉は、こんなことで立ち止まる男じゃない」
だが――
半兵衛の表情は、曇ったままだった。
「敵には、武の象徴がおります」
淡々と、事実だけを告げる。
「弓名人――
大宮景連」
秀政の眉が、わずかに動く。
「得てして、
このような“武威”がある軍は、
調略で降ることはありません」
正論だった。
一騎の武が、
城と兵の精神的支柱になる。
それを失わぬ限り、
話し合いは成立しない。
*
沈黙。
その中で、
秀政は、ふっと息を吐いた。
「……半兵衛殿」
「はい」
「五日、待ってくれぬか」
半兵衛の目が、細くなる。
「どうせ、秀吉はこの傷だ。
しばらくは、動けまい」
「……その間に、何を?」
秀政は、はっきりと言った。
「その“武威”を潰す」
半兵衛の視線が、鋭くなる。
「この陣で、
最も速く、最も長く走れる馬を、
貸していただきたい」
「……構いませぬ」
半兵衛は、即答した。
「ですが――
策は、おありで?」
秀政は、口角をわずかに上げる。
「えぇ。
那古野に――
秘策がおります」
*
すぐに、早馬が用意された。
秀政は、外へ出る。
その背に、
陣中の視線が、静かに集まる。
彼は、振り返り、
短く命じた。
「村瀬」
「は!」
「火野正種と、佐治政勝を呼んでこい」
村瀬の目が、光る。
「得物も持参だ」
一拍。
「――初陣だ」
その言葉に、
空気が、ぴんと張り詰めた。
村瀬は、深く頷く。
「承知!」
村瀬は、馬の手綱を握り、
飛び乗ると全速で疾走していった。
(……待ってろよ、秀吉。
お前を殺しかけた“武”は――
今度は、こっちが狩る。
お前に……必ず功を立てさせてやる)
那古野へ向けて――
一本の線が、夜を切り裂く。
阿坂城の戦は、
ここから、
全く別の局面へ入る。




