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35 遠吠え


「――そういうわけで、ノア様の護衛は足止めしました。あとは神官兵がノア様を捕えるだけです」

「ご苦労じゃった」


 テオ大神官は執務卓を指でとん、と叩き、眼鏡越しにアンナを見上げた。


「ああそうそう、今回のノアの『体調不良』を踏まえて、大神官会議で新しい聖女を選ぶ話が出た。わしはそなたを押そうと思うが……どうじゃ?」


 アンナは飛び上がりそうになるのを抑え、白い聖女見習いの衣をつまんでしとやかに一礼した。


「身に余る光栄ですわ。つつしんでお受けします」

「うむ。他の五賢者が留守の今、わしの意見が大神官会議の意見と言って差し支えない。いっそう聖務に励むがよい」

「はい」

「ノアを捕らえるまで油断はできぬがのう。わかっておろうが、今回のブランデン、モームからの申し入れと宣戦布告、及びノアの追放に関しては他言無用であるぞ」

「はい。心得ております」

「うむ」


 アンナはテオ大神官の執務室を出ると、にんまりと満面の笑みを浮かべた。


「やったわ、ついに聖女の地位があたくしの手に!」


 大神殿別棟(べつとう)の回廊で、アンナは踊るように歩いていく。

 ブルネットの髪をかき上げて空を見上げれば、満月より少し欠けた月が皓々《こうこう》と輝いていた。


「とてもい月だわ。あの月が満ちるように、もう少しであたくしの念願も成就するのよ」

 アンナはほくそ笑む。


――しかし、月が満ちていたのは昨夜だ。アンナはそれを、思い違えていた。


「……あら? なにかしら、あの音は」

 アンナは回廊を走り、大神殿別棟から出る。芝生の中庭パティオを抜けると、大神殿前広場に出た。

 月明りに青白く照らされた白い石畳や石柱、聖人の像が林立する広場に、その不吉な声は一層響いている。


「あれは……獣の遠吠えだわ」


 犬のものでないことは明らかだ。

 もっと雄々しく、猛々《たけだけ》しい何か。


「まさか、狼? いえ、魔物かしら」


 そのとき、大神殿の建物のあちこちから神官兵が出てきた。

「遠吠えじゃないか?」

「本当だ、あれは遠吠えだ」

「狼か?」

「いや、魔物じゃないか?」

「声が近い……ラデウム城壁の中だよな?」

「どこから入ったんだ!」

「いずれにせよ緊急事態だ!」

 神官兵長が怒鳴った。

「残っている神官兵は全員警戒態勢!」

 それを合図に、あわただしく兵たちが動き出した。

「各班、捕獲用の銃を用意! 銀弾ぎんだん装填そうてん! 今は建国記念祭典前で聖都には人があふれている! 一般人を巻き込まぬように!」


 にわかに大神殿前広場が騒がしくなる。神殿の丘を徒歩で、馬で、神官兵たちが駆け下りていった。

 その様子を薔薇の繁みから見ていたアンナは舌打ちした。

「事情を知らない神官兵たちにノア様を捕まえようとしていることばバレたらまずいわ。まったく……早く捕まってくれないかしら、あのへっぽこ聖女」




――そのへっぽこ聖女は、地下水路カレーズでやはりその遠吠えに気付いていた。


「あれってもしかして……アルとレオ?!」

 遠吠えは呼び合っているように聞こえる。


 ノアは聖印に意識を集中する。すると、内容が頭に流れ込んできた。

『すまん。追手から逃れるために変身した』『すまない、僕もだ』『ノアは見つからない』『こちらもだ』『足音と馬蹄ばていの音がする……神官兵か』『本当だ……ノアを捕らえるために?』『いや、俺たちの遠吠えだろう。ならば、裏をかくまでだ。回りこんで城壁に沿い、神殿の丘のふもとを目指す』『わかった。そこで合流だ』


「すっごく良いタイミングじゃない」

 つい先ほど通過した辻の地図で、ノアが今いる地点が神殿の丘の麓付近であることを確認していた。

 ノアは急いで脇道に入ると、地上へ出る階段を昇りはじめた。



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