96.その果てに
雨の勢いは徐々に弱まりつつある。
ただ今も雨粒は木々の隙間でこぼれ落ち葉を打って小刻みに音を鳴らしている。
「邪魔邪魔邪魔邪魔……消ーえてっ!」
大柄な男は大樹の幹のように太い脚でキックを繰り出す。
オイラーは再び剣を前に出して防御するが、直接命中したわけでなくともそのキックはかなりの威力で、強い衝撃を受けて後退してしまう。
動きを止めてはいけない、と、オイラーは咄嗟に剣を振る。
だが大柄なわりに素早い男に容易く回避されてしまい反撃するには至れなかった。
「決ーめたっ、撲殺刑っ」
男の口角がねとりと持ち上がる。
そして男は積極的に動き始めた。
お得意のパンチを目にも留まらぬスピードに乗せて放つ。
オイラーは防御で精一杯だった。
「……やめ、ろ……もう、いい……戦う、な」
「心配しなくていい。あと少しだけ待っていてくれ」
その様子を見ていたアンダーがこの場から立ち去るよう促すが、オイラーはそれには従わない。
「……もう、アンタのこと……護れ、ねーから……」
「アンは何もしなくていい」
「けどよ……オレ、アンタが殺されんの……見んの、やだよ」
つくづく信頼されていないのだな、なんて思いながら、オイラーは心の中で一人苦笑する。
だがそれも仕方のないことかもしれない。
振り返ればいつも護られてばかりだった。
……けれどいつまでもそんな風に弱い自分ではない。
「言ったはずだ、死なないと」
オイラーは落ち着いた声で言って、改めて敵を見据える。
心を無にする。
恐ろしいほどに冷静に。
迫る男の姿をその眼で捉えて――そして、剣を振る。
ようやく攻撃が通った。
大男の腕に傷ができる。
だがそれによって男の怒りが急激に高まってしまい。
「こ、このおおーおおおおーおおおーおーおおおッ!!」
脳が壊れた猛獣のごとき叫び。
そして、突然の大声でくらりときたところを狙い、腕全体に溜め込んだ力を一気に放出するような拳を突き出した。
強烈な一撃がオイラーの腹部に刺さる。
経験したことのないような激痛が瞬間的に走り、オイラーは何もできず膝をついてしまう。
攻撃されたのは腹部だけのはずなのに立ち上がることができない――尋常でない痛みは全身に、そして脳の奥底にまで、十秒にも満たない間に到達している。
倒れたまま戦いを見守っているアンダーは十分に開けることのできない瞼の奥にある瞳を今にも泣き出しそうに揺らしていた。
「……やめろ、って、言ってんだろ……はや、く……逃げろ、って」
ダメージがあったとしても少しでも動ける状態であったならアンダーはきっとオイラーを庇っただろう。
だが散々踏み砕かれた足ではそれすらも叶わず。
また、太もものベルトに残されたナイフはないため、一度の援護すらままならない。
「何やってんだ……」
今ならまだオイラーは逃げられる。
正しい選択をするべきだ。
それゆえ戦うなと繰り返し訴えるが届かない。
アンダーはもどかしさで破裂してしまいそうだった。
「オレなんか……見捨てろよ……」
掠れた声でこぼして、小雨になってきた空を焦点の定まらない目でぼんやりと見上げる。
「アン、それはできないんだ」
オイラーは何とか立ち上がると一度目を伏せた。
「たとえここで逃げて生き延びられたとしても、きっとこの先、何千何万と独り悔いることになるのだろう」
――あの時君を見捨てた、と。
「それは嫌だ」
アンダーに思うことがあるように、オイラーにも思うことはある。
「私は、今この瞬間を後悔したくない」
時とは巻き戻せないものだ。
だからこそ。
痛みも苦しみも受け止めて、命尽きる時まで納得していられる道を選びたい。
「二人まとめて地獄に送ってあげちゃうね? それが望みならーねっ!」
男は違和感だらけの笑みを顔面に塗りたくりながらオイラーに襲いかかる。
だがオイラーは対応した。
突撃してくる拳を身体を斜めにしてすれすれのところでかわす。
そして。
オイラーはすべての想いを込めて剣を振り抜いた。
接近していた男は避けきれない。
腹から胸にかけてのラインでそのひとふりを受けることとなる。
宙を舞う紅は夜明けを告げているかのようだった。
――もう二度と大切な人を失いたくない。
泣いていたあの頃の自分に。
悲しみの中で願った自分に。
今の自分を誇れるだろうか、と、胸の内で問いかける。
斬られた男はしばらく動いていたがやがて沈黙した。
「ありがとう」
呟いて、オイラーは空を見上げる。
「母上、私は、私は……人殺しでも構わない、ただ大切な人を護るためにこの力を使います」
空一面を埋め尽くしていたはずの重苦しい雲はいつの間にかその数を減らしている。
勝利を祝福するように雨は止む。
射し込む光は称賛に似ている。
頭のてっぺんから足の先までずぶ濡れになった王は暫し呆然と立ち尽くす。
「……オイラー」
背後から声がして、正気を取り戻す。
地面に倒れたままの彼の存在を思い出し慌ててそちらへ走っていった。
「アン!」
急いで彼の傍に腰を下ろすと脱力したままの右手を握る。
握り返すという返事は貰えなかった。
小さなことなのに、それがなぜか自分でも理解出来ないくらい悲しくて、オイラーは思わず涙を流してしまう。
「すまない」
オイラーはもう一方の手でアンダーの顔に張りついてしまっている黒い髪を脇へやる。
汚れ傷つききってしまった頬にも以前のような滑らかさは微かに残っていて、けれどもそれが残っていることが余計に胸を締め付けてくる。
「きっと痛かっただろう、きっと辛かっただろう、君をまた独りで苦しませてしまった……」
雲のない空のような瞳からこぼれ落ちる生温かい滴は雨粒のようにアンダーの頬に落ちる。




