95.親友の意味
さして大切でないものを握った手をごみ箱の上で何の躊躇いもなく開くように意識を手放してしまえたなら、どんなに良かっただろう。
意識ある限り、与えられる痛みが途絶えることはない。
気絶してしまえたならどんなに楽か、この世界とお別れしてしまえたならどれほど救われるか、想像するまでもなく分かる。
「だからーさ? 元貧民は貴人なんかに味方するべきじゃなーいんだーよ」
男は上半身は覆いかぶさる位置のまま、足だけを一旦地面に下ろし、そこから小さくジャンプして両足でアンダーの太ももあたりに着地する。
そもそも大柄な男ゆえに体重だけでもかなりのものだ。そこに物体が落下する勢いも加われば、その一撃はより重くなる。小枝でも折るかのように簡単に折れてしまいそうだ、なんて思うほどに、アンダーの脚には衝撃と痛みが走っていた。
「どーうーせ、ああいうやつらは都合の良い時しか関わってこないんだからーさ」
アンダーは顔に張りつく酷く濡れた髪をどうにかしたかったが、今は手を動かす気力さえない。
「組織につけば良かったのにね?」
少し前に太ももに着地した男の足、その片方が、今度は腹を強く踏んだ。
「っ、あ……!」
「そうすればこんな惨めな死に方せずに済んだのーに」
脳の奥まで壊してしまいそうな苦痛の中でも、アンダーは、組織側に味方している自分の姿は想像できなかった。
……ずっと当たり前のようにエイヴェルン側についていたから。
もし、なんて、今さら想像できない。
「だーれも助けに来てくれない、使い捨てにされる、かわいそーな坊や。仲間を怨みながら死んでいくといーよ?」
もはや何度殴られたかもよく分からない。
ぼんやりと、よくこれでまだ生きているな、なんて思いながら、アンダーはただ灰色の空を見上げることしかできなかった。
「さーあ、絶望に染まったその顔をもっと見せ――」
その時。
大男の背後から一つの影が迫るのが見えて。
「離れろ!!」
響く叫び。
ぼやけた視界に、光る剣。
――それはよく知る人物だった。
オイラーは剣を手にアンダーを痛めつける大男に後ろから襲いかかったのだ。
男の反応も悪くはない。
即座に対応。
迫りくる剣に拳を突き立てる。
強烈なパンチは剣越しでもかなりの衝撃、しかしオイラーはぶつかり合う瞬間のどさくさに紛れアンダー側に回ることに成功した。
「アン、遅くなってすまない」
仰向けに倒れているアンダーの左側を陣取るオイラー。
片方の膝より下だけを地面につく座り方をして、剣先を敵に向けながら声をかけた。
「……なん、で」
アンダーは愕然としている。
「よく耐えてくれた。もう大丈夫だ、ここからは私がやる」
敵の男は想定外の仲間の登場に驚き脳内を乱されているようで、すぐには動けない。
「やめろ……」
「なぜ?」
「アンタ、が……死んじゃ、意味……ねぇ、だろ」
赤い双眸にはどこか悲しげな色が滲んでいる。
「私は死なない」
オイラーははっきり言い切った。
「……なぁ」
仰向きになったまま動けないアンダーはいつの間にか切れて赤く滲んでいた口もとを小さく動かす。
「どうした?」
「お嬢、に……」
「サルキアに?」
怪訝な顔をするオイラー。
「……伝えて、くれ……オレも、アンタのこと……好きだった、って……」
弱々しく放たれたそれは、彼の唯一の心残りだった。
言いたかったこと。いや、それは、言うべきだったことだ。でも言えないまま今日が来て、ここへ来て、運命に流されるように死んでゆく。己の最期を垣間見て、それでもなお、どうしても伝えたいと願う言葉。
だがオイラーは首を横に振った。
「それは、生き延びた先で君がその口から伝えるべきことだ」
大切にしている彼の頼みでも時に受け入れられないこともある。
生き延びてほしい――。
今のオイラーの望みはそれだ。
だからこそ死んでからのことについての頼みを聞くことはできない。
「アン、そこにいてくれ。すぐに終わらせる。だから、どうか、終わるまで生きていてほしい」
言いながら立ち上がると、改めて敵を見据える。
「国王陛下来ちゃったーかー」
ようやく落ち着きを取り戻した大きな男は不愉快そうにこぼし、数秒の間に戦闘態勢を取る。
そして。
「まーあ、いっか!」
急接近。
からのパンチ。
オイラーは咄嗟に剣で拳を防いだ。
「ぐっ……!」
「ついでに殺っちゃおーかな?」
直接攻撃を受けたわけではない。
それでもかなりの高威力だった。
これをまともに食らうのは危険だ、と、本能が叫んでいる。
それでも後退することはできない。
そんなことをすれば動けないアンダーはまた暴行を加えられるだろう。
「ひゃーっはっははは、うふ、ぐふふ。もうびびった顔してるーね? さすがは国王陛下、大事にされて育ったからかな? 戦う前から、よーわいなーよーわいなー」
男は煽るように言葉を並べた。
そして再び殴りかかってくる。
「ッ!!」
動きが速い、そしてパワーも凄まじい。
この怪力男に何十回と殴られていたのだ。
アンダーの状態がどれだけ悪いかは容易く推測できる。
「貴様、母上を殺めた男だな」
「んんー?」
「実際に目にするのは初めてだが書類では見たことがある」
現在のこの状況はさすがに面白くないらしく、男は、腐って溶けかけた肉の煮汁のような不愉快そうな顔つきをしていた。
「今度は、間に合った」
オイラーは剣の柄を握る手に力を込める。
「アンは死なせない」
「できるのかーな?」
くだらない挑発に乗るオイラーではない。
「ここでやらずして、何が親友か」
低く述べて、蹴り出す。
王の剣と男の拳がぶつかる。
一見武器がある方が有利そうだが、突き抜けた腕力を持ち戦い慣れている強者であればその程度の差はものともしない。
「二人まとめてあの世逝きにしてあげるーね」
「試してみればいい」
雨脚は弱まってきている。
……もうすぐ、雨は止むだろう。




