94.見て見ぬふりはもうできそうになかった。
……選択を誤れば死ぬ、それは絶対的な理だ。
生きるか死ぬか紙一重な戦いの場においては特に顕著だろう。
小さな間違いが命取りになる。
分かっていたはずの事実を改めて突きつけられて、アンダーは自分に対して呆れた。
正しい選択をしなくてはならなかった。
不利になる可能性がある状況で無理をして突っ込めばどうなるかなど簡単に想像できただろうに。
なぜそんな簡単なことすら正確に判断できなかったのだろう、と、今になって疑問に思うがもう遅い。
「よくもあんなにたくさん葬ってくれたね」
押し潰すようにアンダーの上に乗った大きな男は雨に濡れることは少しも気にしていない様子だ。
今はそれよりもずっと重要なことが目の前にあるからだろう。
「絶対に許さなーい」
アンダーは片足を振り反撃しようとする。だが速く動かせないこともあってすぐに制されてしまった。右足は男の大きな足に踏まれる。何もかもすべてを粉砕してしまいそうな強さで脛を踏まれたアンダーは言葉にならない声を息と共に吐き出してそれと同時にほぼ無意識で目もとに力を加えた。
「馬鹿なことするーね。抵抗すればするほど痛い目に遭うっていうのにね? 何をしても無駄無駄、諦めて大人しく苦しんでいればいいんだーよ。分かるかな?」
「うる、せぇ……んだよ」
「あれれー? そんな態度取っていいのーかな?」
男は拳を振り下ろす。
それは見事に腹に刺さった。
パワーがあれば素手すらも時に凶器となる、その良い例だ。
「……ッ、か、は」
見下ろされるのは最大の屈辱だ。
だが今はそれ以上に苦痛が強い。
「ぃ、ってぇんだよ……マジやめろ……」
圧迫されるような息苦しさにアンダーは思わずこぼしてしまう。
血の気の引いた唇は震えている。
「やめないよ? だってこれは罰だから。きっとこのくらいじゃ殺された仲間たちの痛みには届かないだろうけど、せめーて、理不尽に苦痛を与えられる辛さを少しでも体感するべきだーよ」
男は容赦なくさらなる拳を叩き込む。
そのたびにアンダーは詰まるような息を漏らした。
もはや防御さえまともにできない。無防備なところに拳が何度も突き刺さる。それでも何とか生きていられたのは偏に彼の肉体の強靭さゆえであろう、普通の人間であればとうに気絶するか死に至るかしていたに違いない。生きていることが、まだ息をしていることが、もはや奇跡の域だ。
それでも、アンダーは明らかに弱り始めている。
雨で全身が濡れている冷たさもあいまって段々意識が朦朧としてくる。
殴られるたび思い出がこぼれ落ちるようだ。
散々な目に遭ってきた一方で近頃に関して言えば楽しかったことや嬉しかったことも確かにあったが、その日々があったからこそ、どうしようもない絶望もまた鮮明に描かれる。
(結局……独り惨めに死んでいく運命かよ、マジくだらねぇ……)
視界が濁って、もう何もよく見えない。
与えられる痛みだけが皮肉にも彼をこの世に留めているような状態だった。
(ま、お似合いの最期か)
身も心も限界だ。
手放してしまおうすべて。
静かに目を閉じる。
――その時、瞼の裏に現れたのは、サルキアの姿だった。
「アンタかよ」
思わず呟いてしまう。
もっとも、声はほとんど出ておらず、口もとだけが動いているような呟き方なのだが。
くだらないほど真面目で、礼儀だ何だと口煩く、たびたび些細なことで叱ってくる、面倒臭い女だった。
だがその心は呆れるほど真っ直ぐで。
誰よりも国のことを想い、そして、いつも懸命に王たる兄を支えようとしていた。
「お嬢……」
そんな彼女の傍にいて、いつしか生まれた感情を、本当は薄々察していたのにずっと蓋をしてここまで歩いてきた。
「わりぃな……もう、アンタんとこ……帰れねぇわ」
だが器が壊れゆくほどに蓋をすることすらままならなくなってゆく。
もう隠し続ける気力がない。
だが隠し続ける必要もなくなった。
どのみち死にゆくだけなのだから。
「……好き、だったんだな……オレも」
最期の最期に気がついて、愚かだと自分で自分を嗤う。
どうしてもう少し早く気づけなかったのか。
どうしてよりによってこんな瞬間に気づいてしまうのか。
今さら本当の想いに気がついても、もう遅いのに。
『自分の心から目逸らして生きてるなんてかっこ悪い!』
誰が発したものだったか思い出せもしない言葉が脳裏に蘇る。
(そだな……かっこわりぃよ、サイテーだ)
……運命は悪夢をまだ終わらせない。
寝起きのうつらうつらしている時に近い感覚の中に沈み込んでいたアンダーは突然頬を張られてほんの少しだけ意識を取り戻す。
「まだ眠らせなーいよ?」
頬に残る乾燥した痛みが彼をこの世に連れ戻した。
「もーっと苦しんでもらわないと」
男は城壁のように大きな身体で覆いかぶさると片方の足を振り下ろしてアンダーの左の大腿骨を軋ませる。一旦足裏が太ももに触れてからは、じわじわと足の位置を上下左右にずらしながら圧をかける。絵の具を塗り付けるかのように、負担が掛かる範囲を徐々に広げてゆく。
「……ぁ」
骨か肉かよく分からないところが軋む粘着質な痛みに、アンダーは思わず左腕を伸ばした。
助けを求めるように、縋りつくように、手は開かれ指が伸ばされ――それでもその指先は何にも触れることはないまま、ほんの数秒で力を失いぱたりと地に落ちる。
「可哀想にね?」
圧倒的な力でアンダーを押さえ込んでいる男はご機嫌な顔をしていた。
「結局さ、誰もさ、助けに来てくれないんだもーんね?」
意識が戻ってくることは痛み苦しみが延長されること。
多少は生に近づくとしても良いことなどほとんどない。
「国王のことも、エリカの娘のことも、あんなに熱心に護ってきたのに、今はひとりぼっち。あーあ、可哀想に。惨めだーねー」
アンダーを徹底的に痛めつけほぼ抵抗できない状態にまで追いやった男は精神的に余裕ができたためか饒舌になる。
「結局さーあ? ああいう偉い人たちは貧民のことなんてこれっぽちも考えてないし人間とも見てないんだーよー」
「……アンタが、何を……知ってんだ」
「信じたくなくたってそれが現実だーよ?」
「……うる、せぇ……だま、れ」
「表向きには良いこと言ってたって、本心では、ただの使い捨ての駒としか思ってなーいんだーよ」




