93.何をこんなに恐れているのだろう
逃れようのない状態で胴体を強打されたアンダーは重みのある苦痛に顔をしかめるが太もものベルトに固定されているナイフを右手で握ると渾身の力で振り抜いた。
ナイフの尖端が敵である大男の頬を傷つける。
だが深く抉ることはできず。
十分なダメージを与えることはできなかった。
しかも不運なことにナイフを手にした右手の手首を男に掴まれてしまう。
単純な腕の力比べとなればアンダーは圧倒的に不利だ。
かなりの体格差があるうえ相手はパワータイプかつそこをより一層強化する継承印の持ち主ときている、勝ちようがない。
「ッ……!!」
大男は容赦なくアンダーの右腕を捻った。
不自然な方向への回転を加えつつ強制的に伸ばされる腕。
軋むような違和感そのものの音。
筋がねじ切られるような感覚が肩を抜ける。
手の力が抜けて、握っていたナイフが雨に濡れた地面へ落ちた。
「この腕、折ってやりたかった、ずーっと」
楽しそうな顔をしている男は、脱力した腕を背中側へ回させると、素早く後ろにつく。そしてそこから身体を反らせてアンダーの身体を前から後ろへと投げた。背中から地面に落ちたアンダーは電撃が走るような感覚に汗を滴らせながらも近くにあったナイフをまだ動く左手で拾う。
「腕一本使えなくなった気分はどう?」
「こんくれーじゃ死なねーよ」
アンダーは強がって発した。
「夢叶って嬉しーい。前、目とか狙われて腹立ってたから。その腕だけーは、この手で使えなくしてやりたかった。仕返しだいーじ」
不利な状況にあってもアンダーの心はまだ折れていない。
「……そーだな」
ナイフを握る左手に力を入れる。
「大事だよな、仕返し」
オイラーの母を殺したのはこの男だ。
当時王城で何があったのかとか、誰が暗殺を指示したのかとか、そんな話はアンダーにはよく分からない。
だが母を失った過去へ触れる時にオイラーがいつもどのような顔をするのかは嫌というくらい知っている。
「……やる」
もうこれ以上、オイラーの傷を広げるようなことはしたくない。
それは友としての純粋な想いだ。
「ぶっ殺してやる!!」
アンダーは天まで届くような勢いで鋭く叫ぶ。
――どんな激しい雨音も魂の咆哮までは掻き消せない。
◆
時が経つほどに降雨の勢いは増してゆく。
水の匂いの強まりを感じながらオイラーは窓の外を見つめていた。
そんな時、外から帰ってきたらしい雨合羽を羽織った兵士数人が廊下を歩いているところを目撃する。
彼らは互いに顔を見合せながら「逃げてきて良かったっすね、あの敵は何だかかなりやばそうだったっすもん」「生き延びた生き延びた」などとほのかに緩んだ調子で言葉を交わしている。
「そういえば、彼、置いてきてしまったけど……良かったのかな」
「アンダーとかいう人っしょ? 大丈夫っしょ、強そうだったし。というか俺たちみたいなのと一緒の行動とかあの人はしないっすよ、多分」
想定外なタイミングで耳に飛び込んできたアンダーの名前。
その瞬間得体のしれない感覚に苛まれる。
理由はない、根拠もない、だが異様なほどに嫌な予感が全身を埋め尽くす――。
「すまない、少し聞かせてほしいのだが」
オイラーはほぼ無意識のうちに兵士たちに話しかけてしまっていて。
「アンはどこにいる?」
驚いた顔をされて気まずさを感じながらも、今は少しでも多くアンダーについての情報が欲しかった。
「分かる範囲で構わないので教えてほしい」
兵士たちは驚きつつもアンダーの居場所について教えてくれた。
厳密にはアンダーと別れた場所だが。
ただ、詳しいことを何も聞かされていないオイラーからしてみれば、その程度のざっくりした情報であったとしても有力情報であった。
(私は何をこんなに恐れているのだろう)
オイラーは部屋に戻ると出掛けるための準備を始めていた。
濡れると困る素材でできた上衣は脱いで、一応貰ってはいたもののもうずっと使っていなかった雨合羽を羽織る。
そして壁に立てかけていた鞘に収まったままの剣を手に取った。
(アンは絶対帰ってくる、これまでだってずっとそうだった、なのに……)
今朝出発する前に冗談半分にも聞こえる愚痴をこぼしていたアンダーの様子に不自然な点はなかった。
(今はなぜか、もう会えない気がして――それがとてつもなく怖い)
すべての躊躇いを捨てて、オイラーは基地を出る。
先ほど兵士から教えてもらった場所の情報を参考にすれば、もしかしたらアンダーに会えるかもしれない。どこかを散策しているのか、どこかで戦闘を継続しているのか、それすら定かではないが。少なくとも不安を抱えながらじっとしているよりかは収穫があるはずだ。もし入れ違いになって会えなかったなら帰ってくればいい。
◆
「っ、ぁ……」
馬乗りになる大男の膝が腹部に食い込む。
「はは……ぶっ殺されんの、オレかよ……」
アンダーは仰向けに倒れたまま乾いた笑いをこぼす。
打てる手はすべて打った。
だがそれでも届かない。
まともにやり合えば相手の方が強かった。
「すぐには殺さなーい。ここからは復讐、本題。意味、分かる? 組織の人間、仲間、これまでたくさん殺されてきた。絶対許さなーい」
大男はアンダーの腹についている膝に意図して全体重を乗せる。
「ぃ、っ……」
アンダーを地面に押し倒して男が最初にしたことは雨合羽を脱がせることだった。
酷い湿気と散々雨に濡れていた影響で完全に脱がすことは難しかった。
特に脱力しきっている腕を袖から引き抜くのは至難の業で。
結局、男は途中で面倒臭くなり、黒いそれを完全に脱がせることは諦めたようだった。
彼は何がしたかったのか?
……痛めつけている実感が欲しかったのだ。
緩やかなアウトラインを描く雨合羽の上から踏みつけるより、身体の線が明らかなベストの上から踏みつける方が、圧倒的に『今まさに苦痛を与えているのだ』という実感が湧く。
「苦しんで、苦しんで、少しずつあの世に近づくといいよ」




