86.しっかりしなくては
「疲れたんじゃないか、アン」
夜、狭い一室の中に設置されたベッドに寝転がったオイラーは、椅子に座ってナイフを磨いているアンダーに声をかける。
「どした急に」
「こっちへ来ないか」
「は?」
「そろそろ寝る時間だろう。よかったら君もベッドに寝に来ないか? 高級ベッドではないが身体を休めるには椅子や床よりは適しているだろう」
アンダーは「オレまだ用事してっから」とすぐには移動しなかったが、用事が終わったタイミングでオイラーから執拗に誘われたため、なんだかんだでベッドに収まることとなってしまう。
「ああ、落ち着く」
オイラーは呟いた。
「抱き枕のようだ」
「わけ分かんねぇ」
アンダーを引き込めて大満足なオイラーは「こうして誰かと寝るのが好きなんだ」と嬉しそうに語る。対するアンダーは呆れたように「んじゃ、夫人と寝ろや」と返したが、オイラーは「それは意味合いが違う」ときっぱり言って首を横に振る。
「頭を空っぽにしてこうしていられるのが好きなんだ」
「気ぃ遣わねーからってことか」
「君の前では無でいられる。何も考えなくていい。だからとても愛おしい」
アンダーが冗談めかして「オレが裏切るかもとか考えねーんだな」と発すればオイラーは「そんなことあるものか」と真っ直ぐに答えた。
「それに、もし君がそういった道を選ぶならそれでいい」
オイラーはそこまで言いきって少し切なげに目を細める。
「最期に見るのが君の顔なら未練はない」
彼はそのまま眠りに落ちてしまった。
――夜、不自然な重みで目を覚ます。
アンダーは感覚が鋭い。
重み、音、擦れ、それらが平常時と少し異なっているだけでも意識を取り戻すことができる。
が、この日は深く眠ってしまっていたからか、本来より遅いタイミングで目覚める形となってしまい。
「ウゴクナ、小男」
気づいた時には既に右腕を掴まれたうえ喉もとへ刃を突きつけられているという状況に陥ってしまっていた。
「死ンデモラウ」
まだ夜中ということもあり室内はかなり暗い。視界はお世辞にも良いとは言えない。まったくもって何も見えない、というよりかは見えるものもあるけれど。それでもはっきりと敵の形を捉えることは難しい。
「寝込み襲うとか趣味わりぃなぁ……」
アンダーは愚痴のように一つ吐き出す。
直後、勢いよく身体を横へ振り、ベッドから転落することを選んだ。
敵ごとベッドから落ちる形となったアンダーはまだ腕を掴まれたまま。だが敵とオイラーの距離を作ることには成功した。一定の距離さえあれば一瞬でオイラーを殺められることはない、アンダーとしてはそれで十分だった。
「貴様モ組織ノターゲットイチランニ掲載サレテイル」
「はは、だから殺そうってか」
「ソウイウコトダ覚悟シテモラウ」
アンダーは掴まれた右腕を何とか自由にしようとするがなかなか上手くいかない。
「邪魔ナ小男ハ今スグキエロ」
敵が刃物を握る手に力を加えた――瞬間、アンダーは片方の膝を振り上げ鳩尾に一発叩き込んだ。
鳩尾に膝を突き刺された敵は低い悲鳴をあげる。
そうして敵の握力がほんの少し力が弱まった隙にアンダーはずっと掴まれていた右腕を引き抜く。
こういう時に長い時間は要らない。
ほんの少しの隙だけで十分だ。
アンダーは敵である男の下から脱出するとベッド脇の小さなローテーブルに置いたナイフを手に取り、それを投げた。
「ギュオハ!」
動き回らない的にナイフを当てるくらいであれば容易い。
それは敵の眉間に突き刺さる。
「イ、イ、イデエッ!!」
眉間に物体を刺された敵は苦痛のあまり大きな声を発してしまう。
――その声でオイラーが起きた。
「な、何事だ!?」
「アンタはそこにいな」
オイラーは状況をすぐには呑み込めず目をぱちぱちさせている。
「オ、オオ……オノレ……絶対ニユルサナイ……」
敵の男は必死の形相で何とか立っているが今にも倒れてしまいそうだ。
「コレガ失敗ニオワッテモ……次ノ刺客ガクルダケダ……」
アンダーは敵を注視している。
「貴様ラハコレカラズット命ヲネラワレ続ケルダケノ……コ、ト……」
そこまで言って、敵は力尽きた。
力なく地面に倒れ込む。
「倒したのか?」
「ああまぁそんなもんだな」
オイラーはまだ戸惑ったような面持ちでいる。
「アン、これは一体何があったんだ」
「寝込みを襲うやつ」
「またそういったパターンか」
「気づくの遅れちまったからちょっと時間かかったけどよ、ま、問題なく倒せて良かったわ」
そんな風に話すアンダーの右腕には強く掴まれた痕が残っている。
「命を狙われ続ける、か」
敵襲の件について軍に報告し、それから改めて部屋へ戻ったオイラーは、アンダーと二人で過ごすにしても心なしか狭いと感じるような広さしかない室内で呟く。
「まぁなぁ、そーなるだろーなぁ」
「普通に眠ることさえままならないな」
溜め息をつくオイラーに対しアンダーは「アンタはふつーに寝てていーよ」と言うが、オイラーはそれに素直に頷きはせず「いや、アンに任せっきりというわけにはいかない。そんなのは無責任すぎるだろう」などと言い返す。
甘えてばかりはいられない、と、オイラーははっきりとした調子で述べた。
「しっかりしなくては」
その言葉には、彼の覚悟が滲み出ている。
「護られるだけの子どもではないのだから」
アンダーはオイラーの真っ直ぐな部分をよく知っている。だからその言葉が本心からのものであると正しく理解しているだろう。表向きだけの軽い言葉を並べるような男ではないということは分かっている。
「覚悟すんのはいーけどさぁ、あんま力みすぎんなよ」
だからこそ忠告しておくのだ。
「ずっとガチガチでやってたら身ぃもたねーからな」
――真っ直ぐな自分で歩むことだけが唯一の正解ではない、と。
もちろん真剣であるべき時というのはある。必死に進むべき時というのも確かに存在するものではあるのだ。遊びにここへ来たわけではないのだからあまりにもだらしないというのも問題ではあるのだが。
ただ、本当に集中すべき時のためにある程度温存しておく部分も必要、ということもまた事実である。
「君はいつも私のことを気にかけてくれているのだな。……ありがとう、アン」




