81.後悔せずに生きてゆけたら
夜もかなり深まってきた頃サルキアを自室まで送ったアンダーはそのままオイラーのもとへ戻った。
彼が部屋に入った時、オイラーはベッドで眠っていた。
どこにも悩みなどないかのような穏やかな寝顔。
それを見てなぜか凄く安心している自分がいることに気づく。
オイラーもこうして穏やかに眠ることができるのは今だけだ。いずれこんな風に眠ることすら叶わなくなる。もちろんそれも永遠ではなく、生き延びさえすればいつかはまた平和な日々を取り戻すことはできるだろうが。
――結局戦いの運命からは逃れられない。
アンダーは椅子に腰を下ろし背もたれにもたれつつ反り返るようにして天井を訳もなく見上げる。
視線の先に何かがあるわけではない。
そこにあるのは薄暗い空間と模様はほとんどない天井だけだ。
そして朝が来る。
「おはようアン」
「ん……あぁ、寝てたわ」
椅子に座ったまま寝落ちしていたアンダーはオイラーに声をかけられて目を覚ます。
窓からは穏やかな光が射し込んでいる。
「勘違いすんなよ、お嬢の見張りはしたからな」
「行動はどうだった?」
「バルコニー行っててさ」
「一人でか!?」
大げさに衝撃を受けたような動きをするオイラー。
「危ねーってちゃんと言っといたから」
「そ、そうか……」
今度は胸を撫で下ろすような手の動きをする。
「サルキアが襲われなかったなら何よりだ」
「敵出てこねぇ時もたまにはねーとな」
アンダーは一つ大きめのあくびをすると心なしか乱れた襟を整える。
その瞳の色に、その顔つきに、オイラーは小さな違和感を覚えた。
「昨夜何かあったのか?」
オイラーは思いきって尋ねる。
十年近く隣り合って過ごしてきた。晴れの日も、雨の日も。そんな特別な相手だからこそその微細な変化にも気づく。変化した点がどこかと問われればそれにはっきりと答えることは難しいだろうが。本能で感じる、という表現が近いかもしれない。
「何で?」
「いや、なんとなく、これは本当に勘でしかないのだが……なんとなくそんな気がしてな」
するとアンダーは息を吐き出して。
「好き」
一言呟いてから。
「って、何なんだろーな」
そう続けた。
紅の双眸に宿る光は明らかに日頃とは異なっている。
こんな目をする彼をオイラーは見たことがない。
「アンがそんなことを考えるようになるなんて嘘みたいだ」
「らしくねーよな」
「だが嬉しい。君が人間らしさを手に入れるところを見るのが私は好きだ」
戸惑いつつも、オイラーは微笑ましさを覚える。
アンダーがこれまで知らなかったものに触れている姿を傍で見守るのは地味だがとても楽しいことなのだ。
「……アホだと思うよ、オレも大概」
切り捨てるように言って、アンダーは立ち上がる。
「わり、多分何か変なこと言ったわ」
言いきって、アンダーはオイラーへ目をやる。
その時の双眸はこれまでと同じような状態へ戻っていた。
「気にすんな」
今日もまた、一日が始まってゆく。
◆
午前中空き時間があったのでサルキアはランに会いに行った。
「そ、そうなのですか! 好きと伝えることについに成功なさったのですね!」
サルキアは昨夜のことを話した。
これまで色々協力してくれていた彼女には伝えておきたかったのだ。
アンダーに気持ちを伝えることができた――その事実を。
「そ、それで、アンダーさんは何と……?」
「ええとですね『アンタはオレを選ぶべきじゃねーよ』なんて言われてしまいました」
「うう……厳しい言葉ですね……」
立ったまま両肩を内に引き寄せるラン。
「ただ『べつにアンタのこと嫌いってわけじゃねーよ。いいやつだと思ってる、それは今も変わんねぇし』とも言っていただけました」
「それは……!」
「なので、完全に嫌われたというわけではないようです」
「そ、それは……複雑な心境ではありますけれど……でも! だとすれば救いはありますね!」
ランはどこか気まずそうな面持ちでいるがサルキアはそれと同じような顔をしているわけではない。
「伝えて、良かったです」
サルキアは落ち込んではいない。
すんなりいかないことは想像していた。
きっと都合よく話は進まないだろうと。
だからたとえ実らないとしても構わない。
それでも彼女は前を向ける。
伝えたかったこと。
言いたかったこと。
口にするにはかなりの勇気が必要だった。
けれどあの時すべて出してしまえて良かったと今はただ純粋にそう思えるのだ。
「私、後悔はしていません」
胸の内側には雲一つない快晴の空が広がっている。
「……良かった。少しでも、貴女がすっきりした気分になることができたのなら。やはりそれが一番です。どんな時も……後悔のないよう、生きたいですよね」
ランは微笑んで、澄んだ瞳でサルキアを見つめる。
「はい。後悔のない人生を歩みたいと思います」
サルキアは一度強く頷く。
「そして、誰もがそうあれるように」
困難に立ち向かうことを恐れない。
願いが成就する保証はなくとも迷わない。
灰色の眼が見つめる先に在るのは、拓くべき未来だ。




