80.不確かなそれに縋るしかない。
「あと、ついでにこれ」
アンダーはそう言って何かを取り出した。
その指に摘ままれていたのは金色に光る細いチェーンのブレスレット、鍵モチーフの飾りは夜の微かな光を照り返している。
「それ、前にランさんがくださったものですよね」
「アンタに渡しとくわ」
サルキアが手のひらを出すとアンダーはそこにブレスレットを落とした。
「……どうしてですか?」
「ずっとオイラーんとこに放置してんのもアレかと思ってさ」
「あの、私、自分の分……紛失していませんよ?」
戸惑うばかりのサルキアにアンダーは「や、そーじゃなく」と発して、また、そこからさらに続ける。
「オレの分もアンタが持っといてくれってこと」
「なぜ?」
「さすがにつけてくわけにいかねーし、けど空き部屋に放置してんのもアレだし、で、そんならアンタに渡しとこーかなってさ」
「そうですか。分かりました、では受け取ります。失くさないよう二つ揃えて保存しておきますね」
サルキアはアンダーの分のブレスレットを大切に受け取った。
高所ゆえか吹き抜ける風はどこまでも冷たい。
眼の奥の深いところまで凍り付かせてしまいそうだ。
「あのさ」
アンダーが唐突に口を開く。
「あんま心配しすぎんな、だいじょーぶだから」
「え」
「オイラーは死なせねぇ」
彼が静かながら力強く発した言葉にサルキアは呆れる。
そうじゃない。
「アンタ、オイラーのこと大事に思ってるもんな。分かってる。けど、ホント、心配しなくていーから」
「そう……ですね。アンダーが傍にいれば陛下はきっと生き延びる……そんな気がします」
でも、そうじゃない。
サルキアが辛いのはオイラーの心配をしているからではない。もちろんオイラーのことも気にかけはするが。でもそれは彼女にとって最も重大な部分ではない。
「アンダーも生き延びて帰ってきてくださいね」
「んー、あぁ、ありがとな」
何とも思っていないアンダーはさらりと返したが。
「約束してください」
サルキアに真っ直ぐに見据えられて息が詰まる。
「必ず帰ってくると」
深刻な面持ちに戸惑いつつもアンダーは口もとに薄く笑みを浮かべて「ああ」と返事をした。
「アンタ、マジでオイラーのこと好きなんだな」
――違う、そうじゃない。
サルキアは言いたかった。
ただ一つの想い。
ただ一つの真実。
それを彼に伝えたかった。
こんなに近くにいるのに、手の届く距離にいるのに、本当に言いたいことを口にできないことがもどかしい。
目と目が合って。
冷たい空気に包まれて。
愛しいはずの双眸に、今はとてつもない悲しさが込み上げる。
途端に視界が滲んだ。
「っ、ぅ……」
耐えきれず、涙と声が同時に漏れた。
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙の粒。
透明なそれらには彼女の抱えるいくつもの感情が溶け込んでいる。
俯く面に、顔を隠すゴールドの長い髪。
泣き出してしまうサルキアを目にしたアンダーは驚きと戸惑いが混じったような表情を浮かべつつも寄り添う意思は見せる。
「オイラーと離れんの、そんな辛いんだな」
サルキアは涙で汚れた顔を手で覆って隠しながら、小さく首を横に振る。
違う、そう言いたい彼女の必死の動作だった。
「ちげぇのか?」
アンダーは何か違和感を覚えたように確認する。
「言いたいことあんならはっきり言えよ」
促されてもすぐには本当のことを言えない。
とても言いたいことだけれど、とても言いたいことだからこそ、上手く言える自信がない。
「……辛いのは」
それでも勇気を振り絞って。
「辛い、のは……貴方が」
震える唇から声を発する。
「貴方、が……いなくなる、こと……」
サルキアは両手を握り合わせて胸の前に置く。そこは自身の心臓の鼓動が最もよく感じられるところ。心臓は激しく鳴っている、今にも爆発してしまいそうなほどに。
それでも、今言わなくては、と――。
「好き」
大きく膨らみ過ぎたものを、一気に吐き出した。
アンダーは口をぽかんと空けている。
……そして静寂が訪れた。
夜空に見下ろされた世界は言葉で表現できないほどに静かだ。人の声の一つさえも耳に入ってこない。まるで時が止まったかのような、まるでこの瞬間が永遠になってしまったかのような、そんな感覚に陥るほど。
一秒、一秒、時が刻まれてゆくことすら怖い。
サルキアはそんな感覚に見舞われていた。
この一言がすべてを壊すかもしれない、と、そんな曖昧でけれども圧倒的な恐怖が何度も襲いかかってくる。
夜風に吹かれて頬はいつの間にか乾いていた。
それでもサルキアが心を吐き出したのは、多分、胸の内で大きく育ち過ぎたそれをこれ以上抱え続けることが苦痛だったからだろう。
どうしようもない想いを一人で抱え続ける苦痛と、関係を壊してしまうかもしれない恐怖――その二つを天秤にかけて、何かが壊れるかもしれないと分かりながらも吐き出すことを選択したのだ。
「お嬢、それはな、錯覚してんだよ」
やがて長い長い静寂を破るアンダー。
「近くにいるからさ、何となくそんな気になってんだ多分」
その表情は夜の闇に溶けて見えない。
「それにな、もしその感情が本物だったとしても、アンタはオレを選ぶべきじゃねーよ」
どうして! ――強く言いかけて、サルキアは唾を呑み込む。
「選択を誤った人間は死ぬ」
アンダーが悲しげな顔をしているように見えたから。
ここで反撃することが正しいのか?
もしかしたら彼も自分と同じように何か抱えているかもしれないのに?
言葉にできること、言葉にしていること、それだけがその人の心のすべてではないことは自分が一番知っている。
「アンタがそーなるとこは見たくねーから、馬鹿げた選択肢は捨てな」
彼はそうやって厳しい意見を述べるがそれがすべてとも限らない、サルキアはそう考えて前向きに捉えるよう努力した。
そうしなければ自分の大切な部分が壊れてしまうような気がしたから。
「べつにアンタのこと嫌いってわけじゃねーよ。いいやつだと思ってる、それは今も変わんねぇし」
けど、と、彼は続ける。
「……なんかさ、今、あんま期待したくねーんだ」
その言葉を耳にした瞬間サルキアは微かな希望を目にした気がした。
――幻滅されたわけじゃ、ない、のかな。
今はただ、不確かなそれに縋るしかない。




