79.嵐のただなかに在ろうとも
今、我が国は、嵐のただなかに在る。
引き返すことは難しい道を歩み、困難に突き当たってもなお無機質に刻まれる時の中をただ進むしかない状況で、国の明日のためにそして民のために何ができるのか。
考えるほどに訳が分からなくなっていくような感覚と共にサルキアは思考の海に沈み込む。
たとえば泳ごうと海に入っていて突然足が攣ったとしたら、きっとどうしようもなくなるだろう。思考してしまうということはそれに似ている。数多の困難や悩みで塗り潰された海に入ってあれこれ考え始めれば、いつしか身体は沈みゆく。その時になって慌てて陸へ上がろうとしても上手くはいかないし足掻けば足掻くだけ余計に沈み込んでゆくのが世の常だ。
「サルキアじゃないか」
屋根はあるが外と同じ空気を吸うことのできる通路で悩めるサルキアに声をかけたのは通りすがりのオイラーだった。
その後ろにはアンダーの姿もある。
「こんなところで何をしている?」
「陛下、何かご用でしょうか」
「いやそうでなく。尋ねているのはこちらだ」
硬い圧をかけられてサルキアは「すみません」と呟くように謝罪する。
「書類を届けて部屋へ戻ろうとしているところです」
また、彼女は、謝罪に続けて問いへの答えも述べた。
「そうだったのだな」
「はい」
何となく気まずさに包まれる兄妹。
「少し話をしても構わないだろうか」
「何でしょう」
周囲には誰もいない。
隠れている人間の気配もない。
「私はいずれここを離れるかもしれない」
想定外の言葉を投げられて、サルキアはきょとんとしてしまう。
「国のためだ」
サルキアはまだ、理解できない、というような顔をしている。
「平穏を取り戻すために戦いに出る」
オイラーがそう言った時でさえサルキアはまだ言葉を失ったままだった。
「まだ確定事項ではない。あくまで可能性だ。ただ恐らくいずれはそうしなくてはならない時が来るだろう」
「……噂は耳にしています、しかし」
ほんの一瞬の沈黙、その先で。
「もしその時が来たなら、君は王城を護ってくれ」
オイラーは淡々と述べた。
「なんということを仰るのですか」
「人には役割というものがある」
「話が飛び過ぎています。王城を護れ? 私に? それは難しいでしょう。私は戦闘能力もない人間です、そのようなことを頼まれましても困ります」
できないことはできないと先に言うべき、そう思うからこそサルキアは本心を隠さない。
「何も君が自ら戦うことはない」
「では王城防衛の指揮官になれと仰るのですか?」
「王城に残り皆を支え導いてほしい、ということだ。それは王の血を引く者だからこそできることだろう」
もうそこまで考えているのか。
ということは本気で城を出るつもりなのか。
サルキアは脳内が滅茶苦茶になってしまいそうだった。
それでも冷静さを保つ努力を続ける。
「いきなりそのようなことを言われましても、まだ、正直なところすべてを理解し受け入れることはできていません」
「それはそうだろう。すまない、急に」
「ですが想定はしておきます。もしそうなった場合にでも何とかやっていけるように。心の準備だけは済ませておきたいと思います」
相変わらず面白みのないことしか言えないな、と、サルキアは自分のセンスのなさにうんざりする。
「ところで、アンダーも同行するのですか?」
「ま、そーなるだろーな」
尋ねておいて心を砕かれるサルキア。
彼と離れることになる。
それは今の彼女にとって何よりも辛いことだ。
ショックを受けた顔のまま暫し固まっていた。
オイラーはその顔を見てサルキアの心情を多少察したようだが、アンダーはというとそういうところには目を向けていないようである。
「心配すんな、オイラーは死なせねーよ」
……そうじゃない。
サルキアは思うがそれを言葉にする気力はもはやない。
「急にすまなかったなサルキア」
「いえ……」
こうして王の血を引く二人の会話は終わった。
交差するように歩き出す。
◆
サルキアの姿が見えないところまで移動してから、それまで黙っていたオイラーは唐突に口を開く。
「アン、今夜サルキアを見張っておいてくれ」
いきなりの頼みに目を大きく開くアンダー。
「あんなことを告げてしまった後だ、どんな行動に出るか分からない」
「信頼してねーのか?」
「いやそうじゃない。心配なんだ。思った以上にショックを受けたような顔をしていたからな」
「そっちか」
「精神状態が心配だ」
「ふぅん。ま、分かったよ。そーするわ」
アンダーはズボンのポケットに手を突っ込んだまま返した。
冷え始めた風が草木を揺らしている。
◆
夜、サルキアはなかなか眠れず、王城の最上階へ来てしまった。
暗い時間に一人出歩くことのリスクは理解している。
刺客に襲われればひとたまりもない。
それでもここへ来たのは、乱れた脳内をどうにかして一旦整理したかったからだ。
バルコニーへ続く扉を押し開けると、夜空の下へ歩き出せる。
徐々に寒さを帯び始める季節と夜特有の風の冷たさがあいまって心なしか寒さも感じられるが、レース生地のものではあるが上着を一枚羽織ってきたため風邪を引きそうなほどではない。
シーツのように薄いワンピースの裾がふわりと風になびく。
遠くに街が見える。
ここからだとエイヴェルンを十分に見下ろすことができる。
――すべての戦いなどなければ良かったのに。
争いも、憎しみも、最初から無であれば良かった。
そうすれば誰も傷つかなかった。
きっと今も誰もが笑顔でいられただろう。
どうしようもないもやもやを抱えた瞳で拓かれた未来を真っ直ぐに見据えることはできない。
「お嬢」
声をかけられて、振り返る。
「アンダー……貴方、また、つけてきたのですか?」
もう驚きはしない。
これまでにもそういうことはあった。
彼はいつもこんな風に唐突に姿を現す。
「んな顔すんなよ。オレの意思じゃねーし。見張っとけってオイラーが言うからだって」
「陛下が?」
「そーそー、何かアンタのことが心配みてーでさ」
「そうだったのですね」
迷惑をかけてしまった、と、少しばかり反省するサルキア。
「けどさぁ、夜一人でウロウロすんのマジで危ねぇから」
アンダーに言われたサルキアはなぜかほんの少し頬を緩めながら「はい……そう、ですよね、すみません」と謝るような言葉を発した。




