73.影を掻き消す影も要る。
その日オイラーはとてつもなく忙しかった。
いつもより早い起床、朝一番から会合があり、その後はエイヴェルン国内の複数の地域の首長と一対一で顔を合わせて状況報告を受ける。昼食を急いで済ませたらエイヴェルン軍のお偉いさんがやって来て、その対応、からの対武装組織関連の今後の方針についての意見交換会に参加。
――と、そういった日程を自力でこなす必要があった。
日頃はアンダーのサポートがあるのでそれなりに順調に仕事を片付けてゆけるのだが今日は彼を頼ることはできない。
というのも、アンダーは軍から頼まれての任務の日だったのだ。
彼がほぼ一日中王城敷地内にいないというのは珍しいこと、それゆえオイラーは言葉にできない寂しさを抱えていた。
だがそれでも、彼が帰ってきた時に胸を張って会えるように、と――なるべく前向きに考えるようにして、オイラーはやたらと多い仕事を一つずつ着実にこなしていった。
◆
「ぐ、ゃあ……」
薄暗い路地裏で、刃が光る。
アンダーが命じられた暗殺目標のうちの一人。
その男は大通りから少し離れた路地にて女性をナンパしていた。
一般人である女性は拒否するが無理矢理同行させようと腕を強く掴んで――だが直後そのうなじをナイフの先が抉った。
急所に刃を突き立てられた男はばたりと倒れる。
フード付きの上着を羽織り布で顔の下半分も隠したアンダーは男の沈黙を確認すると女性に礼を言われるより早くその場から立ち去った。
一つ成功したからと喜んでいる暇はない。
次の目標を仕留めるべく移動する。
繁華街の奥にひっそりと建てられている小屋、その一室に次なる暗殺目標はいた。
もう一人の男と酒を飲みながら何やら話をして盛り上がっている。
暗殺目標ももう一人の男も既にかなり飲んでいるようで、顔全体が赤らんでいた。
お得意の忍び込みで裏口から小屋に入り込んだアンダーは見張りがいないことを確認しつつ進み、やがて暗殺目標がいる部屋の扉の前へたどり着く。
ターゲットではない方の男がお手洗いへ行くため部屋から出ていくのを物陰から見送って、室内へと突入した。
「な、ナニモンだ!」
酔っ払っている男は突如現れた刺客に動揺を隠せない。
慌てて酒の入ったグラスを投げつける。だがアンダーは素早く動きかわした。グラスそのものどころか中に入っていた酒の一滴さえもアンダーにはかからない。
そのままアンダーは男に接近、背後に回って首を絞める。
男は口をぱくぱくさせるがそれ以上声を出すことはできず、多少ばたばたと暴れはしたもののやがて脱力した。
――懐かしい感触。
それが傍にあることが、幸せなのか不幸せなのか。
今の彼にはよく分からなかった。
かつては当たり前にその手の内にあったもの、けれども今はどこか懐かしさと共に違和感さえも覚えるほどで。
本当はこんな感覚は忘れてしまった方が良いのだろう――そんな風に思いながらも、結局自分にはこれしかないのだと改めて現実を突きつけられる。
手を血に染めること。
他者の命を刈り取ること。
自分にとってはありふれたものだったはずなのに、いつの間にか遠ざかっていた。
王城でも敵は倒す。
護るためなら命も容赦なく奪う。
しかし貴い人の隣にいると自分が何者であるか時折忘れそうになる。
所詮人殺しなのに。
それしかできないのに。
まるで初めから普通の人間であったかのように錯覚する――。
それからもアンダーは着々と暗殺対象を仕留めていった。
こうして軍の命令のもと動くのは久しぶりではあるが、いざ始めてみれば意外とすぐに感覚を取り戻すことができた。
オイラーやサルキアの存在に思考が至る時、こんな自分が彼らに大切にされていることに心なしか罪悪感を覚えもする。だがそれでも、国を護るためにはなんだかんだでこういう人間も必要なのだ、と思い直す。
光は影を生む、それは絶対的なことだ。
それゆえ影を掻き消す影も要る。
◆
夜遅く、アンダーは王城へ戻った。
「アン!」
既にベッドに入り寝かけていたオイラーだが、戻ってきたアンダーに気づくとすぐに起き上がった。
「わり、起こした?」
「良かった! 無事、帰ってきたのだな!」
寝巻きのままベッドから出るオイラーは、欲しかった物を誕生日プレゼントとして貰えた子どものような目をして思わずアンダーを抱き締める。
「ああ良かった」
オイラーとて日頃は誰かを突然抱き締めたりはしない。だがこの時だけは自制心が壊れてしまって。溢れ出した嬉しさがそのまま行動に反映されてしまったのだった。
「おいおい、こりゃさすがにいてぇって」
呆れ気味なアンダーがそう言えば。
「どこか怪我しているのか!?」
オイラーは目が飛び出しそうな勢いでアンダーを見る。
「そーじゃねぇ」
「な、なら良かった、が……では、痛い、というのは一体……?」
「アンタの力が強すぎんだよ」
きょとんとするオイラー。
「あんま絞めんな」
「ち、違う! そうじゃない! そんなつもりはなかったんだ! ……ただ、その、あまりにも嬉しく」
今度はおろおろしてしまうオイラー。
その姿は偉大な国王からは程遠い。
だがアンダーはオイラーのそういう様子を眺めるのが嫌いでなかった。




