71.この悪夢が終わるまで
蓋をして押し込めた感情は時にいとも容易く溢れ出しそうになるものだ。
たとえ鍵をかけても。
人として生きる限り定めとして消し去ることのできないものを胸の奥に閉じ込めておくことは難しい。
些細なきっかけでそれは暴走し始める。
そうなればきっともう止まらないし、誰も止めることなどできないのだろう――アンダーは予感していて、だからこそ、押し込めたものに敢えて目を向けないようにしていた。
「オレがチビだから子ども扱いしてんのか?」
「いいえ」
「じゃあ何なんだよこれは!」
よく分からないのです、と、サルキアは小さく答える。
「けれど今はこうしていたい気持ちなのです」
「いい加減離せって」
「きっとこうやって抱き締められたこともないのでしょう?」
サルキアの言葉はアンダーとしては意外な言葉だったようで。
「モテねーの馬鹿にしてんのか」
彼は少し不満げに返す。
「いえ、そうではなく」
「じゃあ何なんだよ」
「貴方にはお母様もお父様もいないのでしょう、ならきっとこうやって大切にされたこともないのだろうなと」
アンダーは「そっちか……」と独り言のように呟いた。
「やっぱ子ども扱いしてんじゃねーか」
それからしばらくアンダーは大人しくなっていたが、やがて、正気を取り戻したかのように「もーいーだろさすがに!」と言い放ち今もまだ腕を回してきているサルキアを振り払った。
「このことぜってー誰にも言うなよ」
「はい? それはそうですね、敢えて言うこともないかと」
サルキアは最初アンダーが恥ずかしがってそんなことを言ってきているのかと思ったのだが。
「アンタの未来がかかってんだからな」
そんな風に続けられて、何とも言えない気分になる。
「……どうしていつもそんな風に言うのですか」
眉間にしわを寄せるサルキア。
「何だよ急に」
「貴方はいつもそういうことばかり言いますね」
「事実だろ」
「勝手に未来を想像して押し付けないでください」
心なしか重みを帯びる空気。
「何急に怒ってんだ」
「私は嫌いなんです、そうやって当たり前の未来を押し付けられるのが」
「や、けど、事実だろ? アンタは王族だしゆくゆくは貴人とか金持ちとかと結婚すんだろ」
サルキアは「そういうところ!」とすかさず放つ。
「私は結婚するなど一度も言っていませんから!」
「いやけどそーなるだろ多分」
「そもそも私はエイヴェルンのために生きるつもりですし、陛下の力にならねばならないので、色々忙しいのです」
はっきりと言いきるサルキアを見てアンダーは「そーだな」と呆れ笑い。
「そーいうやつだったな、アンタは」
サルキアは、はい、と頷く。
彼女は気づいていない。
目の前の男が何に蓋をしたのか。
「取り敢えずここから脱出する方法を模索しましょう」
「そーしよ」
なんてことない言葉を交わす二人だったが、次の瞬間世界に亀裂が入り、そして光に包まれる――。
◆
「――ぁ、サルキア!」
声がして、引き戻された。
「へい、か」
口を動かして。
光り注がれる視界に帰還を知る。
「良かった、生きているのだな」
「はい……」
術によって気絶させられた妹を見下ろすオイラーは不安げな面持ちでいたが、意識を取り戻した彼女が言葉を発することができるのだと分かるとその面に日射しが射し込んだ。
「怪我……して、います」
サルキアは灰色の瞳で尊敬する王を見上げて、息の混じった声で述べる。
「手当てを……」
オイラーの頬には切り傷があった。
数は多くないが、それらは敵との交戦によってついたものだ。
「私なら問題ない」
「ですが……」
「それより尋ねたい。気を失っている間、何か見ていたか?」
意外な問いが出てきて。
「……夢、みたいなものを」
悩みながらもサルキアは答える。
「アンダーの、記憶」
彼女はそこまで明かした。
「記憶――やはり、か」
その時になってサルキアは気づいた。
ジルゼッタも付近にいることを。
辺りには複数の敵が倒れ込んでおり、その中にただ一人コートの男だけが残されているのだが、その首に刃をあてがっているのがジルゼッタだ。
「陛下……? どういうことですか」
「男が言っていたのだ、そういったことを。だがその言葉が事実かどうかは外からでは分からない。術をかけられた本人に確認する以外に方法はない」
少し間を空けて。
「どうやら事実だったようだな」
オイラーは落ち着いた様子で続けた。
ちょうどそのタイミングでサルキアと同じく気を失って倒れていたアンダーがむくりと身を立てる。
「アン!」
オイラーはすぐにそちらへ目をやってしまうがサルキアは不快には思わない――彼も目を覚ませたことへの安堵感が勝っている。
すぐにアンダーの方へ移動したオイラーはアンダーから「お嬢後回しにすんなよ」と静かに突っ込みを入れられながらも彼の頬についた汗の粒を指先ですくう。
「本当に……無事で良かった」
アンダーを見つめるオイラーの目には希望の光が宿っている。
それは路上で咲き続ける花のような可憐さと力強さを同時にはらんだものだ。
「わりぃな足引っ張って」
「いやそんなことはない。アン、あの状況でサルキアを護ってくれてありがとう」
「ああいやあれは……何か、よく分かんねぇけど、身体が動いてただけ」
恥じらいを含んだぶっきらぼうな表情を滲ませるアンダーはどこか年頃の少年のようでもある。
その後サルキアとアンダーはオイラーから現在の状況について聞かせられた。
対峙していた敵はオイラーが何とか自力で片付けたこと。
術者である都合上仕留めてしまえないコートの男だけは生かしているが、それはあくまで術を解くことを求めるため――そして、後から合流できたジルゼッタと共に追い込んで術を解くよう圧をかけ、今に至っていること。
この場は一旦敵がほぼいない状態となっているが城内の別の場所ではまだ剣を交えている者もいること。
そういったことを簡潔に聞かされる二人。
「戦いまだ続いてんのか。そりゃやべーな。呑気に寝てる場合じゃねーわ」
話を聞いたアンダーはすぐに立ち上がろうとする。
「待つんだアン、無理は良くない」
放っておいたらまたどこかへ行ってしまいそうなアンダーに声をかけるのはオイラーだ。
「何?」
「また戦うつもりだろう」
「そりゃあなぁ、戦力は一人でも多い方がいーだろ」
アンダーはさらりとそんな風に言うけれど。
「駄目だ!」
オイラーはそれを認めなかった。
「君はダメージを受けている」
「何言ってんだ」
「気を失わされる前に受けたダメージがあるだろう、ここで無理をするべきではない」
しかしアンダーは素直でなく「どーってことねーよ、あんなん」と吐き捨てた。




