70.だから私は貴方を抱き締めていたい
――そしてまた別の映像に変わる。
雪が降っていた。
見るからに冷たそうな空気に満たされた路地裏を少年は歩く。
冬にしては、雪が降っているような日にしては、とてつもなく薄着だ。
ふらふらと頼りない足取りで大通りの方へ出た少年は頬に雪の結晶が落ちる頃にバランスを崩して倒れ込む。
顔全体が赤らんでいる。
心なしか苦しそうな面持ちだ。
道で座り込んでしまった少年は、通行人から、うわっ、と気持ちの悪いものでも見たかのような声を発された。
そんな場面を目にするとただ見ているだけのサルキアの胸も痛む。
見ず知らずの人から不快なもののように扱われる経験はしたことがないが、それでも、そんな風に反応された時にどんな気持ちになるかくらいは予想できる。
もっともそれが正しい答えなのかどうかは定かでないが。
ただ、そこにいるだけで生きているだけで気持ち悪いものとして扱われることを喜ぶ者というのは稀だろう。
少年はやがて通行人の女性に向けて何か言葉を放った。
だが返ってきたのは、あっち行って汚いから、という心ない言葉だけ――それを耳にした少年は諦めたように路地裏の方へと戻っていった。
もうまともに歩くことさえできていない。
地面に座ったような体勢で身を引きずりながら動いている。
その様はまるで死にかけの虫のようだ。
ゆっくりと街の陰へ戻った彼は建物の裏の壁にもたれながら空を見上げる。前後左右ほとんど空間のない路地裏でも、上だけは空に繋がっている。顔の赤らみすらその場所では影に消されてしまうけれど、夜空だけはすべての者が見上げるそれと同じだ。
どう足掻いても手の届かないそれだけは、すべての人に平等だった。
……とても、とても、寒い夜。
『店のもん盗ったやろ!』
『盗ってない!』
気づけば別のシーンに移っていて。
いつまでこんなことが続くのだろう、なんて、サルキアはぼんやりと思う。
……術が解けるまでずっとこのままなのだろうか?
そんなことを考えて不安にもなるけれど。
ただ隣に愛しい人がいてくれることだけが救いだった。
『嘘つくな、分かってんねんぞ! いっつもお前みたいなやつが泥棒するんや!』
『してない!』
少年は盗みの疑いをかけられているようだ。
彼に迫っているバンダナの男は恐らく店主か何かなのだろう。
だがその顔つきは普通ではなかった。
盗まれたと思い怒っているということもあるのだろうが目つきが不自然だ。
男は片手で少年の腕を捻り上げるともう一方の手でその細い身体をまさぐる。
『どこに隠してん』
『盗ってない』
『隠したとこはよ言えや!』
『そもそも盗ってない、隠してない、勘違いだって』
少年は首を横に振るが男には届かない。
『嘘つけ!』
男は大きな声で言い放ち少年を放り投げると地面に落ちたその身体を踏みつけてにやりと笑う。
『まぁでもべつにええわ。盗ってようが盗ってまいが。抵抗できひんやつをこうやって見下ろして痛めつけるんが好きやねん』
まさかの言葉が飛び出して。
サルキアは愕然とする。
盗んでいようがいまいが男にとっては大した問題ではなかったのだと気づいたから。
『最高のストレス発散方法やん?』
少年は頭部を持ち上げ男を睨みつけるが、それも束の間、脇腹につま先を突き立てられ痛みに丸くなってしまう。
『仕事してたら毎日ストレスばっかりやからさぁ』
震える少年を男は勢いよく蹴った。
小さな身体はボールのように転がってゆく。
『発散させてもらわなな』
男は周囲へ目をやって発見した木の棒を手に取る。
『お前みたいなん何の役にも立たへんねんからさぁ、せめて……』
愉快そうな面持ちで倒れている少年に近寄って。
『ストレス発散の手伝いぐらいしぃや!!』
成人男性の腕くらいの太さはある棒を振り下ろした。
サルキアは少年が男に殴られているところをただ見つめることしかできなかった。
だがそれは仕方のないことなのだ。
なんせそれは記憶だから。
手を伸ばしても、駆け寄っても、干渉できるわけではない――その少年を救うことはできないのだ。
ただ、それでもなお、申し訳なさを感じる部分はあった。
もし誰か一人でも助けようとする人間がいたなら、自分で助けに入るのは無理だとしてもバンダナ男を制止するために動こうと考える者がいたなら、もしかしたら少年はこの苦しみから解放されたかもしれなかったのに。
「酷いものですね」
思わず独り言として呟いたサルキアは、数秒の間の後、また気に障ることを言ってしまったのではないかと心配になり隣に立っているアンダーへと目をやる。
だが当のアンダーはというと、理不尽に棒で痛めつけられる少年の姿をじっと見つめているだけであった。
サルキアは彼の名を呼び掛けて呑み込んだ。
隣にある手をそっと握る。
――するとアンダーは気がついたようでようやくサルキアの方へと顔を向けた。
「どした?」
いきなり手を取られたことに戸惑っているのか、アンダーは何度か目をぱちぱちさせている。
サルキアが遠慮がちに視線を返すと、隣り合う二人の視線が重なって、何とも言えない空気が立ち込めた。
「ずっと頑張ってこられたのですね」
「や、べつに」
「今はまだ、相応しい、ここで述べるべき言葉を私は持っていません。でも、どうか……言わせてください」
アンダーはどこか警戒したような面持ちでいたが。
「ありがとう」
目を伏せたサルキアの口から出た短い言葉を耳にして、拍子抜けしたような表情になった。
「もしいつか過去の貴方に巡り会えたら、一番に抱き締めたいです」
サルキアはそう続けたが、アンダーはただきょとんとした顔をすることしかできずにいる。
「な、何言ってんだ? 急に?」
「感謝しているんです。過去の貴方に。だって、過去の貴方が歩んできた道の延長線上に現在の貴方が存在しているわけじゃないですか」
「まぁ……そりゃ誰だってそーだが……」
アンダーは前髪の影が落ちた目もとに困ったような色を浮かべているがサルキアは気づいていない。
「てか、やめろよ」
やがてアンダーがサルキアの手を静かに払う。
「手ぇ繋いでんのは変だろ」
するとサルキアは何か考えるような顔をした。
ほんの数秒だけ脳を探るように言葉を消し去って、それから、改めて目線をアンダーの方へと戻す。
そして口紅を塗るように唇に柔らかな笑みを滲ませると、躊躇いなく目の前の男を抱き締めた。
「なおさらおかしーだろ!」
アンダーは反射的に突っ込んだ。
「マジで落ち着けって!」
「変なんです。ずっとあんな風に扱われているところを見ていたら、何だか無性にこうしたくなって……」
「んな同情すんなて」
「いえ、そうではありません。でも、私、貴方のこと大切にしたいなって」
なかなか離してもらえないアンダーは。
「嫌、ですか?」
耳の傍で切なげに囁かれ。
「そーじゃねぇ、けど……」
頬を赤く染めている。
「……これは、やり過ぎだろ」




