69.彼は何も言わない
男はやがて少年の髪を掴むとその身を無理矢理持ち上げる。
『大人しくしろ! ああ、あるいは、もっと痛い目に遭いたいか?』
『……だ』
『何だって? もう一回はっきり言えや!』
掴み上げられた髪の隙間から炎にも血にも似た色の瞳が覗く。
『アンタら、大人は、全員クソだ!』
少年は強く言い放った。
だがより一層怒った男に頬を張られる。
どんな主張も圧倒的に不利な状況下では火に油を注ぐ状態でしかない。
『怨むならてめぇをこんなきたねぇとこに捨てた親を怨めや!』
男はだみ声で怒鳴る。
『それとも一回死ぬか!?』
『お前みたいなガキ、死んだってこっちは痛くも痒くもねーんだ! ここで殺したっていいんだぞ!』
複数人の男に取り囲まれた少年は怯えたような顔をしていたが、言いなりにはなりたくないというような瞳の色をしていたこともまた事実である。
肉付きの悪い少年の腕を男たちは容赦なく掴む。ちぎれてしまうのではないか、なんて心配になるような光景だった。だがそれでも少年は身を振って抵抗する。余程捕まりたくないようで、その小さい身体で懸命に抵抗していた。
やがて男のうちの一人が『ぎゃっ』と声をあげる――少年が自身の腕を掴む男の腕に噛み付いたのだ。
想定外だったらしく一瞬怯む男たち。
生まれた隙を見逃さず少年は走り始める。
その場から逃げ出した。
一連の流れを眺めていたサルキアは胸を撫で下ろす。
少年が逃げられて良かった、と。
アンダーが生きているということは少年が死ぬことはないということで、それは分かりきっていることなのだが、それでも危険な状況に陥っている様子を見ていたらどうしても心配になってしまうものだ。
走って逃げた少年は大通りに出て通行人にぶつかってしまい、ぶつかった通行人の若い青年に不快さに満ちた顔をされたうえ『うわ、何こいつ』と呟かれる。
――映像が切り替わる。
少年は先ほどと同じようなボロ布を身にまとい飲食店が立ち並ぶ場所の裏道を歩いている。
「次のシーンですね」
サルキアは小さめの声で話しかけてみたけれどアンダーは無言だった。
心なしか足取りがふらついている少年は飲食店の裏口を出てすぐのところに置かれた子どもの背の高さくらいあるゴミ箱の蓋を開けた。半透明な袋を取り出すと、素手でその中を漁り、食べられそうな物が見つかるたび直接口に放り込み始めた。
『あんた! またやってんのかい!』
物音に反応してか裏口から出てきた肥えた女性店主が鋭く放つ。
『汚らしい鼠はさっさとどっか行きな! うちに近寄るんじゃないよ!』
だが少年はさほど動じない。
彼が女性店主へ目をやったのは一瞬だけだった。
汁のついた口もとを手の甲で拭って、また次の食べる物を探し始める。
『聞いてんのかい!?』
『……だって、お腹空いてんだもん』
『そういう問題じゃないよ! あんたみたいなこ汚いのがうろちょろしてたら店の評判に傷がつくだろ? やめるんだよ今すぐ!』
『いいじゃんどうせ誰も食べないんだから』
次の袋を開けようとする少年に女性店主は『やめなよ! 浅ましい!』と注意するが、少年が女性店主を横目で見て『じゃあ食べるもんくれんの?』と言い返せば女性店主は黙ってしまった。
静寂が訪れる。
それでも少年は貪り食っていた。
きっと余程お腹が空いていたのだろう――サルキアはそんな当たり前な想像をして、自分は本当に想像力が豊かでないな、と自分に対して呆れる。
隣にいるアンダーは何も言わない。
――また新しい場面へと移る。
先ほどと似たような状況だ。
黒髪の少年は前回と同じような道を進んでいた。
そうして先ほどと同じ場所へたどり着くとゴミ箱を漁り始める。
慣れた手つきでゴミ箱の中の食べ物を口にしたのだが――食べ始めて二分ほど経ったタイミングで突如嘔吐した。
少年の目が見開かれる。
夜の闇に映える紅が震えている。
『ははは、引っかかったね』
少年が倒れ込むとそれを待っていたかのように女性店主が姿を現した。
『なん、で……』
『毒を混ぜておいたんだよ。ま、毒って言うほどのものじゃあないけどね。安心しな、死にはしない』
ばったりと倒れた少年は青白い顔をして唇を震わせる。
『言っても分からないやつには苦痛で分からせないとねぇ』
『ぁ……熱、い……』
『死なない毒にしてるだけ優しいと思いな』
見るからに体調が悪そうな顔をした少年はそれからも何度か体内のものを吐き出した。
目もとを濡らしながら、身体を震わせながら、苦痛に懸命に耐えている。
もはや健康な状態とは程遠い。
力なく地面に倒れ込んでいる彼は使い終わって捨てられたボロ布が放置されているのだと見間違いそうなほどに弱々しい。
『そうやって痛い目に遭えば分かるだろ? あんたの行いが悪いことだってことがさ』
『分かって、る……そん、な、こと……』
『さすがに分かっただろ? これに懲りたら二度と現れるんじゃないよ!』
全身から噴き出した汗が少年の髪を水浸しにしていた。
女性店主が仁王立ちをしながら勝ち誇ったような面持ちで『あんたみたいなやつのために店やってるわけじゃないんだからね!』とまるで決め台詞であるかのように発すると、地面に倒れ込んだ少年は『やっぱクソだ……』と弱々しく呟く。それを聞き逃さなかった女性店主は苛立ったらしく『は? 今何て言ったんだい? もう一度言ってごらん』と強い調子で言った。だが返事はなく。それによって女性店主はさらに苛立ちを強め、その太い足で少年の脚を踏みながら『もう一度言えって言ってるんだよ! ほら! 早く言いな!』と怒鳴った。
『大人は……みん、な……クソだって、言ってんだ……』
少年は低い声を出す。
『どいつも、こいつも……生きんのの邪魔してきやがる……クソ野郎ばっかだ……』
その表情はかなり荒んだものだった。
「酷い……」
サルキアは胸が痛かった。
少年がそんな風に言うのも仕方のないことだ。
これほどまでに心ないことをされれば、誰だって、すべての人を信じたくなくなるだろう。
この世を怨むだろう。
そしてそんな世界を築いた大人たちに対しても怒りを覚えるだろう。
見下されることが、傷つけられることが、当たり前の世界なんて。
『あんたみたいなのは生きてなくていい』
『……クソ、ババア』
女性店主は少年を踏む足に加える力を強める。
『だってそうだろう? あんたみたいなのが生きても社会の役になんて立つわけがないんだよ。だからさっさと息絶えればいい――みーんな心の中じゃそう思ってるよ。間違いなくね』
『……だま、れ』
『しつこいね! これ以上イライラさせるんじゃないよ! 反抗的な発言するやつはもっと泣かせるよ!』
感情的になっている女性は太い腕で付近にあった傘を手に取る。
『まだ反省できないってんなら、もっと罰を与えないとね』
女性は黒い傘で少年を叩いた。
『ッ!!』
傘自体はそれほど硬い物体ではない。
だが豪快に振りかぶって叩かれれば痛みはかなりのもののようで。
『あっ、ッ……ぐっ……』
叩かれるたび、少年は息に限りなく近い苦痛の声をこぼしていた。
ほぼ肉のない身体ゆえになおさら痛みが強いのだろう――サルキアはそんなことを思う。
『生きてることを詫びな!』
『……ッ、黙れ』
『とことん生意気なやつだね、そんなに痛い目に遭いたいのかい!?』
『ムカ、つく……んだよ……』
少年はまだ震えている腕で身体を支えると精神力だけで上半身を持ち上げる。
俯いた顔に黒い髪が影を落として。
白い頬から汗の粒がこぼれた。
『ムカつくんだよッ!!』
それまで比較的大人しかった少年が突然荒々しく叫んだ。
『何だって生きてるだけでこんな目に遭わなきゃなんねーんだ!!』
衰弱した身体を怒りだけで動かしている彼は振り上げるように面を持ち上げる――だがその視線の先にあるのは、虚しいほどに黒く塗り潰された夜空だけだった。




