60.ある日のエイヴェルン(2)
ティラナはいつもご機嫌だ。
付き合いが長く主として尊敬しているジルゼッタと共にあれるのだから不満なんて一切ない。
加えて、ティラナはそもそも不満というものをあまり抱えないタイプなのだ。
嫌なことがあっても、辛いことがあっても、わりとすぐにケロッとしているところがある――そういう意味での強さが彼女を長きにわたり支えてきた。
そして今日も、ティラナは穏やかな心で仕事に精を出している。
ジルゼッタの自室の前の廊下を掃除するティラナは軽やかな美声を響かせながら箒を持った手を動かしていた。
すると。
「歌、声、綺麗」
いつの間にかリッタが現れていた。
彼女はティラナの歌声に引き寄せられてそこにいるのだ。
なぜか廊下の真ん中できちんと正座している。
「あらぁ、どなたぁ~?」
ちょこんと座ったリッタに声をかけるティラナ。
「リッタ、リッタ・チェリブリッヒ」
「知らないですわぁ~」
「ラン、侍女、仕える」
「あぁ~なるほどぉ~ん、ラン様の侍女さんなのですわねぇ~?」
「そう、合ってる、正解」
相変わらず喋り方にくせのあるリッタだがティラナは特に気にしていない様子。
「もっと、歌って?」
リッタは僅かに頭を傾けながら希望を述べる。
それを受けてにっこりしたティラナはまた歌い始めた。
ふんわりとした肉付きの身体から溢れる歌声は人の心を揺らすほどの不思議な力をはらんでいる。その声に魅了されたリッタはそれからも歌声を心地よさそうに聴いていた。たまに、今にも眠ってしまいそうな表情を作るが。それでもなお動き回ることなく聴いていた。
「スキ」
「ありがとぉ~」
ティラナの掃除が終わるまで歌は続く。
「また、聴く」
「もちろんでっすわぁ~! 侍女同士仲良くしまっしょぉ~」
異種族であるティラナと出自こそ若干複雑ではあるものの人間のリッタ、種族は異なる二人だがその間に敵対する心などは少しもなかった。
美しい歌声が二人を繋ぐ、そんな時間だった。
◆
「サルキア様、そういえば、ランタンナイトはいかがでしたか?」
お昼時、珍しく城内の食堂を訪れていたサルキアは、同じくたまたま食堂へ来ていたランと遭遇する。
ランはサルキアの顔を見るなりそんな質問を放ってきた。
「無事終了しました」
「え……と、そうではなく、ですね……」
もじもじしつつももっと聞きたいことがありそうなラン。
「もしや、良い雰囲気になれたかどうかを尋ねているのですか?」
サルキアは遠回しな表現にはしなかった。
「……実は、気になっていて」
直球で来られたランは恥ずかしそうに短く返す。
問いだけ聞けば一見首を突っ込みたいだけの人のようだが、そうでないことをサルキアは知っている。ランはその件についていつも親身になって対応してくれていたから。だからランに問われれば答えるのが筋だろうと思うし、それを不快に感じることもない。
「お茶でもしましょうか」
「はい……!」
サルキアはランと食堂の席に腰を下ろす。
国王の妹と国王の妻がティータイム、という珍しい状況ではあるが、漂う空気はとても穏やかなものだ。
二人はとても仲が良い。
ずっと昔から知り合いであったかのように、彼女たちは語り合う。
◆
自室に一人のオイラー。
彼はふと思い立って机の下にある棚を開ける。
懐かしいアルバム。
茶色のファイルに手を伸ばした。
幼い頃の写真はここにはない。そのファイルに入っている写真はすべてある程度の年齢になってから撮ったものばかりだ。それでも確かに思い出はそこにある。
一枚だけ、家族で撮ったものが入っている。
その時のオイラーはまだ大人の大きさにはなっていないが、国王であった父とその第一夫人であった母と自分の三人で写っているものだ。
その頃は写真を撮るのがあまり好きではなかった。
年頃のせいかもしれないが何となく恥ずかしさがあって、また、面倒臭さを感じる部分もあった。
それゆえ写真の中の自分はあまりやる気のある顔はしていない。
もっともそれも遠い過去となってしまえばただの遠い記憶でしかないのだが。
この時はきっと母が亡くなるなんて思っていなかったのだろう――それを思うと少し寂しい気もするが。
結局、その先に家族写真はないままだ。
だがそこからはアンダーとの思い出がたくさん刻まれている。
そのほとんどが自分から頼んで撮ることに成功したものではあるのだが、それでも、写真は写真だし記憶は記憶だ。
あれは友人になったアンダーが任務を終えて帰ってきたある夜だった。
傷ついた彼の姿を見て、この人を永遠に遺しておきたい、と、そう思った。
ふらりといなくなってしまいそうな気がしたのだ。
自分の前からも。
この世界からも。
それで頼み込んで何とか撮らせてもらったのが一枚目だ。
何も傷ついた姿を欲していたわけではないのだが、アンダーからは「いい趣味してんなぁ」と皮肉られてしまった。
……だがそれでも良かった。
どう思われようとも構わない、どうにかして彼の姿をこの世界の片隅に遺したかったのだ。
「懐かしいな」
呟いて、頬を緩める。
そこに在る姿だけは何があろうとも永遠に自分のもの――それがオイラーにとっての優越感だ。




