32.海へ
街を下り、海へ。
エイヴェルンにも海はある。しかしそれは王城からは若干距離のある場所だ。そのため海へ行くとなればちょっとしたお出掛けというよりかはそれ以上のお出掛けとなる。そういう意味では気軽には行けない場所だ。
ただ、リッタの背に乗って走れば、時間あたりの移動距離は大幅に増えるので。
「わああ! リッちゃん、はやぁい!」
海まで行くことも容易い。
移動速度の違いというのは大きいものだ。
「海まで、あと少し、リッタ、頑張る」
「風になったみたい!」
ランはリッタにおんぶされたまま、猛スピードでの移動の心地よさを楽しんでいた。
今は悲しみすらも吹き飛ばして。
ただ駆け抜ける。
青空の下を。
「海、着いた」
「凄いわ。とっても早かった。さすがリッちゃんね」
ランに褒められたリッタは分かりやすく胸を張り、満足したような表情で「誇らしい」と短く発した。たったの数文字、それだけの短い言葉ではあったが、そこにはリッタの心が見事なまでに映し出されている。褒められて嬉しい感情であったり、ランを大切に思う気持ちであったり、その他にも色々。
空は青いが、海はそれ以上に青い。
そしてどこまでも続いている。
無限に続く宇宙にも似たそれは、どこか癖のある、それでいて心地よい潮の匂いを運んでくる。
「じゃあ、リッタ、次」
「次?」
「貝、持ってくる、待ってて」
リッタは両膝にそれぞれ着用している防具を素早く外すとそのまま海に飛び込んだ。
「ちゃ、着衣、水泳……?」
ランはきょとんとした顔をしてしまう。
それからしばらくして。
ぱしゃりと音がして水面に現れる緑の影。
リッタは岸から上陸し、抱えている複数の貝のうちの一つをランへ差し出す。
「これ、あげる」
「え」
「もう、あと、中身食べる、だけ」
「こ、これを? ここで? 食べるの?」
「ウン。新鮮、生でも美味しい、食べて」
期待したような眼差しを向けるリッタ。
ランは困り果てていた。
というのも貝を生のまま食べたことはこれまでなかったのだ。
「こじ開けて、そこを、吸って」
「で、でも、調理は……」
「そのまま、で、十分、美味しい」
つい先ほどまで海の中にいたそれを口腔内へ入れるという行為にはラン的には抵抗があった。
しかしここではっきりと断るとリッタの好意を叩き潰すこととなってしまうのでそれは難しい。
ランは揺れていた。
「どうして? ラン、貝、嫌い?」
「いいえ、でも……」
「生、食べて、ダイジョウブ。それ、安全」
――そうだ、リッタは自分を励ますためにこうして貝を贈ってくれたのだ。
ランは心を決める。
そして貝殻を改めて掴んだ。
鼻を近づけると少し独特な匂いがして。慣れないことに戸惑う。けれどそれは悪臭ではなかった。どこか食欲をそそられるような気もする、不思議な匂い。
「……食べる!」
決心したランはそのまま貝を口へ入れた。
貝を生のまま口腔内へ入れたランは咀嚼する。
何とも言えない食感に翻弄されながら。
そして。
「り、リッちゃん……これ……」
やがて、ごくりと飲み込んで。
「美味しい!!」
彼女は食べた感想を大きな声で発した。
「硬めのところと柔らかいところの食感の違いが楽しいし、とろとろなのもとっても好き!」
「ふふふ」
「これが生の貝の美味しさなのね!?」
「という、より、この貝、ならでは」
「とっても美味しい……! これなら、調味料なんてなくてもいくらでも食べられそう……!」
ランはうっとりしながら感想を述べる。
その瞬間の彼女はアイリーンとのことやそれによる悲しさなんてすっかり忘れていた。
でもそれで良かったのだ。
最初からそれが目的だったのだから。
ただ、結局すぐにまた思い出して。
「アイリーンさんにも食べてほしい……」
悲しさは湧き上がる。
面倒臭いことに、それは何度でも蘇るのだ。
「ほら、ラン、もっと、ある」
「えっいいの!?」
「あげる。食べていい。まだまだ、食べて、ダイジョウブ」
「嬉しい! ありがとうリッちゃん!」
その悲しさを掻き消すように、ランは貝を頬張った。
口の中に鮮やかに広がる海の香り。
繰り返す痛みに効く唯一の薬だ。
美味しいものを食べている、その間だけは、どんな嫌なことだって忘れてしまえる。
「ラン、貝、気に入って、良かった」
リッタが海に潜って採ってきた貝で満腹になったランは明るい表情を取り戻しつつあった。
「元気、なった?」
「ええ。連れてきてくれてありがとうリッちゃん」
「じゃあ、そろそろ、帰る?」
問われて、ランは口を開く。
「あのね、実は、少し行きたいところがあって――」
ランとリッタが向かったのは海の見える商業施設。
「ここ、で、何、する?」
「買いたいものがあるの」
エイヴェルンにも商業施設というのは多数存在する。
多くの店が集まり並んでいる、若者や女性に人気のあるスポットである。
「買い物?」
「プレゼント。ちょっと買いたいと思っているものがあったの」
「もしかして、アイリーンに、あげる?」
「ええ、それも。そうなの、それもあるけれど……」
ランは一軒のアクセサリー店の前で足を止める。
出掛けるとなった時には既に心に決めていたこと。
それを達成するために。
「ここへ来た目的は二つあります」
リッタは首を傾げる。
「一つはアイリーンさんへの贈り物を買うこと」
「貰って、くれない、思う」
「それは言わないで」
「……ごめん、リッタ、余計なこと、言った」
そして、と、ランは続ける。
「もう一つは……サルキア様に喜んでもらおう作戦に使うアイテムを買うことですっ!」
妙に張り切っているランを目にしたリッタは「ランは買い物が好きなのだな」とぼんやりとではあるが理解した。
ただ、ランの瞳が輝いていることは、リッタにとっても喜ばしいこと――なので特に何も突っ込まないでおいたのだった。




