31.泣いていても空は澄んでいる
薄暗い空間。埃の匂いだけが充満している。はっきりと外が見える窓はなく、建物の外からの光が入り込んでくるのも壁の高い位置にある隙間からだけだ。
王城とは真逆のようなその場所でアイリーンとランは顔を合わせることとなる。
ついこの前までは隣にいた。
国王の夫人とその侍女として。
しかしもうその関係は壊れてしまった。
終わったのだ、すべて。
そう思っているからこそ……。
「貴女と話すことはありません」
アイリーンは冷ややかに言い放った。
「我々の関係は変わり果てました。今やご夫人と罪人。ですので、お帰りください」
ランと話をする気は一切ない。
否、それどころか、もはや関わる気さえもない。
それがアイリーンの出した答えだった。
しかし。
「い、嫌です……!」
ランは首を横に振った。
「わたくしは……アイリーンさん、貴女と……話がしたいのですっ」
澄んだ空のような瞳に力を込めて、柵の向こう側にいる存在を見つめる。
「何か、きっと、事情があるのではないかと……! そうです、きっと、アイリーンさんがあのようなことをなさったのには理由があるはずなのです……!」
ランは懸命に言葉を紡ぐ。
「すみませんが、貴女の顔は見たくありません」
「え……」
「お帰りください」
「そんな……アイリーンさんが、あのお優しいアイリーンさんが、そのような酷いことを仰るわけが……」
それでも何とか踏ん張るランだったが。
「さようなら。貴女とは二度とお話しすることはないでしょう」
冷たい態度を取り続けるアイリーンに心を折られて。
「っ……」
ランは涙をこぼしてしまう。
「……ごめん、なさい」
彼女は両手で目もとを押さえ、牢内に背を向けて走り出した。
今のアイリーンはきっと自分に心を開いてはくれないだろう。
ランはそう予想していた。
あんなことがあった直後で、牢に入れられている状態で、そんな中でアイリーンが今まで通り接してくれるとは思えない。
でも、それでも、期待していた部分はあった。
自分が会いに行けばもしかしたら少しくらいは笑ってくれるのではないか、と。
けれども現実は厳しかった。彼女が考えていたほど甘くはなかった。アイリーンの心は完全に閉ざされ、こじ開けることさえできない状態で。触れようとすれば傷つけられる、そんな棘をまとってしまっている。どんな優しい感情も棘の鎧に遮られてアイリーンの身に心に届くことはない。接することを望んでも何の解決にもならないのだ。ただ自分が傷つくだけで。
その時のランは本人でさえ理解が追いつかないくらい涙を流していた。
外へ出た彼女はそのまま地面に座り込んでしまう。
もう立っていることさえままならなかった。
何を言われても構わない、それでもアイリーンと向き合いたい。
……そう思っていたはずなのに。
落ち込んだランはスカートが汚れることを気にする余裕もなく地面に直接座り込み、立てた膝に顔を埋めて、ここでなら誰にも気づかれないだろうと思い号泣し始める――が、たまたま居合わせた人間がいた。
「何やってんだ?」
声をかけたのはアンダーだ。
彼のことを害虫と呼ぶ者もいる。
それはどんなところにでも唐突に現れるからである。
ただ、今回に関しては、完全に偶然。
アンダーもまた今日ここへ来ていた。用事があって、だ。しかし建物に入ろうとした瞬間に入っていくランを目撃してしまい、顔を合わせることになってもややこしいかと思って外で待機しておくことにしたのである。それは一応彼なりの配慮ではあったのだが、結果、こんな何とも言えない場所で出会うこととなってしまった。
「服汚れんぞ」
「……放っておいて、ください」
鼻水を啜る音を聞いたアンダーは少々困ったような顔をしたが。
「んじゃ、これやるわ」
少し考えてから紙幣を一枚ランの方へと投げた。
「ぇ……」
ようやく僅かに面を持ち上げたランは手探りで紙幣を拾ったが、赤く腫れた面に不思議そうな色を滲ませる。
「前、治療してくれたろ? その礼、まだできてなかったの思い出したからよ。それでちょっと美味いもんでも食って機嫌直してこい」
「え……あ、あの……」
「んじゃオレはこれで」
「っ、ぁ、あのっ……受け取れません、こ、こんな……」
「いーから。貰っとけよ」
アンダーは何事もなかったかのような顔で建物の方へ入っていってしまった。
「ラン」
ちょうどそのタイミングで近くの木の上からリッタが飛び下りてくる。
「リッちゃん……」
「泣いてる、ラン、アンダーに、酷いこと、言われた?」
「ち、違うの! そうじゃなくて!」
ランが建物から出てきたらリッタはそれを迎えに来て、そこからは一緒に帰る、という予定になっていた。
「……アイリーンさん、話したくないって」
「それで、泣いてた?」
「……そうなの」
「酷い。アイリーン、ラン、泣かせた。リッタ、アイリーン、嫌い」
頬を膨らませ不満そうな顔をするリッタ。
「リッちゃん……そんなこと言っちゃ駄目」
「けど、ラン、傷ついてる」
「……アイリーンさんにはアイリーンさんの事情があるのだと思うの」
「何で、庇うの。ラン、被害者。完全に、なのに」
「アイリーンさんのこと……信じたいの。今はああだけれど、本当は……本当はきっと優しい人だって」
ランは目を伏せながら言葉を紡いでいく。
その様子をリッタは戸惑ったように見つめていた。
「また三人で、楽しく過ごしたいの……」
空は澄んでいた。
涙をこぼすランを見下ろしていてもなお穏やかな光を地上に注いでいる。
静寂の中、それまで立っていたリッタがランの前に腰を下ろす。
「ラン、どこか、行こう?」
リッタはランの顔を覗き込む。
「気分転換、大事」
「……でも」
「リッタ、ランに、海の幸、あげる。いつか、約束、した」
「海……」
「今こそ、その時。行こう。一緒に」
ランを抱き締めるリッタ。
「ダイジョウブ」
ただ抱き締めたまま、リッタはそう呟いた。
「リッちゃん……」
「一緒、に、いる。ずっと。仲良し。リッタ、裏切らない」
そうしてランとリッタはお出掛けすることとなったのだった。
海へ行く。
いつかした約束。
今こそそれを果たす時。
加えて、アンダーから貰ったそこそこ大きな額の紙幣の使い道も、その時ランは既に決めていた。




