28.大切な人から目を逸らさないで
「ラン、様……!?」
アイリーンの顔に動揺の波が広がる。
目の前にランが現れたことが――正しくはランとリッタがだが――それはアイリーンにとって想定外のことだったのだろう。
「申し訳ありません。やはり少し気になりまして。つい出てきてしまいました。けれど……アイリーンさん、これは一体……」
戸惑いを言葉として紡ぐランに向けて先に口を開くのはアンダー。
「さっさと部屋に帰りな」
しかしランは首を横に大きく振る。
「できません! アンダーさん、これは何事なのですか? 貴方、裏切ったのですか!」
事情を説明することの面倒臭さに長く息を吐いてしまうアンダー。
「んなわけねーだろ」
「で、ではどうして戦っているのですか!」
「こいつが敵なんだよ」
「アイリーンさんになすりつけないでください!」
「そりゃこっちのセリフだ」
アイリーンもアンダーも動きが止まっている。
「オレだって何が何だか知らねーよ。けどその女が攻撃してきたことは事実だっての」
アンダーが言えば。
「……そんな、信じられません」
ランは困り顔になる。
だがその時。
「そうです」
アイリーンがぽつりと述べた。
「え……」
「先に仕掛けたのはこちらです」
静かなアイリーンの声に困惑したような顔をするラン。
何が何だか分かっていない様子。
「そんな……嘘、ですよね?」
「ラン様に対し敵意はありません。けれどこればかりはどうしようもないこと」
「ほ……本当、なのですか?」
これまで聞いたことのないアイリーンの冷ややかな声。
でもそれはある意味発言の根拠となっている。
「室内待機をお願いしましたよね?」
「……す、すみません」
「けれど貴女はここへ来られた。そうして今すべてを明かすしかなくなった。本当はこのようなことに貴女を巻き込みたくはなかったのですが」
快晴の空のような瞳が揺れる。
「もうこうなっては仕方ありませんね」
リッタがランを庇うように前へ出る。
彼女の表情は動物の威嚇に似たものであった。
「アイリーン、もう、敵」
「リッちゃん!?」
「敵意、凄い、でも、護る」
「そんな……」
「ダイジョウブ、リッタ、戦いできる」
ランの心は乱されていた。
信じたくない。
でも。
もう信じるしかない。
崖に追い詰められたような気分。
「……と、取り敢えず、アンダーさんは行ってください」
ただ、それでも。
「ん? いーのかよ」
「陛下のところへ。早く。お願いします」
本当はもう理解している。
彼女は愚か者ではないから。
「命は一つですから」
今にも泣き出してしまいそうだった。
きっと胸は。
痛くて辛くて今にも張り裂けそうな状態だったことだろう。
けれどもランはまだ泣けなかった。
言うべきことがそこにあったから。
「大切な人から目を逸らさないでくださいね」
ランは最後まで言えた。
――そう、笑って。
「おう」
アンダーはそのままオイラーを追う。
それからランは目の前の女性へと視線を戻す。
「アイリーンさん……」
ここへ来て一番最初に会ったのが彼女だった。
「わたくしにとって貴女は特別な方です」
迎えてくれたこと。
微笑んでくれたこと。
不安だった心を救ってくれたこと、一生忘れない。
ランは迷いなくそう言える自信を持っていた。
「その事実はきっと永遠に消えはしないでしょう」
頬を伝う涙を拭って。
「……だから」
前を向く。
「リッちゃん! 捕まえて!」
たとえどんな現実がそこにあるとしても。
「うん、リッタ、アイリーン、捕まえる」
それでも目を逸らしはしない。
どんな痛みも。
どんな苦しみも。
すべてを受け止める覚悟で、今、ランはアイリーンを見つめるのだ。
「ッ……」
怯んでいるのはアイリーンのほうだった。
◆
ちょうどその頃、オイラーはサルキアの部屋に到着していた。
彼もまた戦いの中に在る。
その手には剣が握られている。
「陛下、どうして私のために。狙われているのは貴方です。私のために陛下が移動してこられる必要なんてなかったのに」
オイラーがここへたどり着いた時、サルキアは部屋を占拠する男たちに乱暴な言葉をかけられていた。ある種の脅しである。とはいえそれはサルキアが男の礼儀知らずさに対し問題があると主張したためで、命そのものを狙われているというわけではなかった。
「愚かだと理解はしている」
……自ら危険に飛び込むような真似を。
「だがどうしても、君のところへ行きたいと」
身内を失う痛みを彼は知っている。
思い出したくもないことだ。
けれども永遠に消えない記憶。
あの日、母は死んだ。
殺されたのだ。
とても善良で清らかな女性だったのに。
夫である当時の国王からも、この地で暮らす民からも、深く愛されていたのに。
「馬鹿だと笑ってくれ」
失われた命は二度と戻らない。
死んでしまえばもう手を取り合うことさえできない。
思い知ったのだ。
そんな当たり前なことを。
オイラーは、あの日、亡くなった母を目にしたあの時に――。




