24.鷲はもう飛べない
エリカのもとから去ったワシーはその胸の内を苛立ちに満たされていた。
それは、大地の奥底に眠るものに似ている。
日頃普通に生きている分にはそれに触れることはない。
だがふとした瞬間に。
何かしらの些細なきっかけで。
目を覚ましたそれは、あっという間に爆発してしまいそうになる。
怒りとは興味深いものだ。
ほんの数十秒でも破裂しそうなほどにまで膨らむ。
「はぁ……」
誰もいない廊下を歩きながらワシーは敢えて溜め息をついた。
こうでもしないと発狂してしまいそうだ。
――彼は今も、過去の絶望に囚われている。
それは遠い過去の記憶。
もう手を伸ばしても届かない、触れられないほどに。
あれはまだワシーが今よりずっと若かった頃。
彼には愛する妻がいた。
とても美しい人だった。
代々王家に仕えてきたバーナー家の子息として生まれ、王に仕えることだけが生きる価値であり誇りであると信じていたワシーが、ただ一人愛した女性――彼女は特別な人だった。
二人の娘にも恵まれ、何もかもが順調に進んでいると思っていた。
だがそれは思い込みで。
その日、ワシーは見てしまった。知ってしまった。まったく想像していなかったこと、光景を。
淡い日射しが穏やかな空気を作る日だった。
彼の妻は彼が知らない男性と共にあった。
それもワシーが一度も見たことがないほどの満面の笑みで。
振り返ればワシーの前で彼女はそんな風に笑っていたことはなかった。
不倫されていた――?
いつから?
ワシーはまったくもって気づいていなかった。
だからこそ衝撃も大きく。
加えて、彼女がそんなことができるほど器用な人だと思っていなかったこともありなおさらショックを受けた。
当然ワシーは問い詰める。
だが返ってきたのは。
『貴方のことはもう愛せないの』
そんな言葉だった。
『もう何もかも手遅れよ。……さよなら』
妻はもう夫を愛してはいなかった。
いや、夫婦というものはいつまでも互いを愛するものではないだろう。一般的には。けれども、愛している、以上の繋がりを持っていたりするものだ。けれどもワシーの妻にはそういったものはなかった。彼女はその時既に夫を捨てるという確かな覚悟を持っていた。
またその後ワシーにさらにショックを与えるような事実が判明する。
妻と親しくしていた男性は貧しい地域の出だったのだ。
しかも両親もいない。
いわゆる捨てられた子である。
自身の家柄に誇りと自信を持っていたワシーには凄まじい敗北感が襲いかかった。
なぜ、良い家柄の自分よりも親も家柄も何も持たない男を選ぶのか?
――そうして穏やかな日々は終わった。
「嫌なことを思い出してしまった……」
娘二人は自身が引き取って育てることにしたワシー。
慣れないことばかりの日々だったが彼なりに努力はした。
そうして娘たちは何とか問題なく育っていった。
……時に当たり散らしてしまうこともあったが。
「ああ、嫌だ嫌だ」
どれだけ時が流れても、取り戻せないものもある。
知らぬ間に過ぎ去った日常も。
いつの間にか消え去った愛も。
どんなに願っても戻らないもの。
そして、彼の心もまた。
翼を亡くした鷲は飛べない。
――ただ、それだけのこと。




