122.美しい人
忙しい日々の中における時の経過とは驚くほどに早いものだ。
あっという間に冬が過ぎ去った。
といってもまた肌寒さは残っているのだが。
だが、ただひたすらに寒いだけの季節は確かに過ぎて、ここのところ心なしか春の訪れを告げるような匂いが漂い始めている。
植物が芽を出すのはまだもう少し先だろうか。そんな風に思わせるが、一方で、もうすぐだと心待ちにさせる風が毎日のように吹いている。その時は着実に近づいてきている、風という旋律に乗せてそう語りかけるかのように。新しい季節はすぐそこまでやって来ているのだ。
――そして、エイヴェルンにも。
姿見の前で立ち上がり、片腕を伸ばす。
細い腕を包み込む白いレース風の薄い生地、袖部分だが、それは伸ばした腕を本来の長さ以上に長く見せる。
白鳥のような優雅さ。
白薔薇のような高貴さ。
サルキアが身にまとっている純白のドレスは、それらをまとったような美しさをはらんでいる。
長く伸びた深みのあるゴールドの髪は結われ後頭部できっちりとまとめられている。それゆえ髪一本すら肩にはかかっておらず、また、頬に触れることさえもない。髪をまとめたために日頃より目立つ首は袖と同じレース生地で作られたハイネックに包まれて清らかに伸びる。
軽く化粧を施された頬はいつもよりも艶やかで、睫毛も上向いている。
そうして飾られ作り上げられている中でも、瞳だけはありのままの彼女を残している――灰色の双眸には知性が宿っていた。
女は誰でも綺麗になりたい。
いつか誰かがそんなことを言っていたけれど、その時のサルキアにはその意味はよく分からなかった。
国のため、将来のため、勉強する。知識を蓄える。経験を積む。あの頃はそういったことで頭がいっぱいで、それ以外のことや自分自身の美に関することなどについて考える余裕は少しもなかった。
だが今ならほんの少し理解できる気がする。
綺麗になりたい。
綺麗でいたい。
それはきっと普遍的な感情なのだろう。
鏡に映る飾られた自分を見つめていると、前向きな心が湧いてくるようで。
今はとても特別な感情が胸を満たしている。
知らなかった世界を、見たことのない世界を、目にすることができるような気がして――未知なる領域への感心は高まるばかりだ。
その場でゆったりと一回転してみれば、純白のドレスの裾が広がりながら揺れて円を描く。
幼い頃見た絵本に出てきたプリンセスはこんな景色をいつも見ていたのだろうか、なんて考えて。いい年して馬鹿なことを考えているなと子どもじみた自分に呆れつつも、一人、意味もなく照れ笑いしてしまう。
結婚式用ドレスの着用テストを終えたサルキアは着慣れたサーモンピンクのパンツスーツに着替えて廊下を歩いていた。すると正面からオイラーとアンダーが歩いてくるのが見えた。変なところがあったらどうしよう、と一瞬焦る。
「サルキアじゃないか」
焦っていたところオイラーから声をかけられて。
「こんにちは」
サルキアはすべてを不安を振り払い、冷静に挨拶する。
「最近思うのだが」
「何でしょう」
「君は日に日に美しくなってゆく」
オイラーはサルキアをまじまじと見つめながら感想を口にする。
そういうのは奥さんに言えばいいのに、なんて思いつつも、サルキアは「ありがとうございます」と落ち着いた様子で礼を述べた。
「どうしてだろう」
疑問形でこぼすオイラーの瞳には嬉しげな色が滲んでいる。
「不思議なことだな。元々美しかった君だが、こんな風にさらに美しくなってゆくなど、正直少しも想像していなかった」
彼の後ろにいるアンダーは特に何も言わずただその場で足を止めている。
「先ほどまでドレスの着用テストをしていましたので、もしかしたら、その時の化粧が残っているのかもしれません」
「そういう美しさではない」
「え……」
「私が言いたい美しさというのは、飾ることで生み出された美しさではなく、その姿から滲み出るような美しさのことだ」
サルキアはアンダーと視線を重ね、互いに、語りが止まらない王への呆れを露わにするように少しだけ目を細めた。
「いや、すまない。あれこれ言ってしまい。これ以上は迷惑だな、ここまでにしておこう」
やがて正気を取り戻したオイラーは苦笑しつつそんな風に言って話を切った。
「サルキア、仕事に式の準備にと色々忙しいだろうが無理はしないように」
「お気遣いありがとうございます」
「一時的に仕事量を減らした方が良ければ言ってくれ。私にできる範囲での協力はするので」
落ち着いた表情で述べる彼は紳士的だった。
ただ、こういう時、サルキアはいつも思うのだ。
彼には良いところがあるのにどうしてそれを女性に対して発揮できないのだろう、と。
思いやりというか、気遣いというか、そういうものをオイラーは確かに持っている。それを身内でない女性に対しても発揮できたなら、間違いなく関係は進展するだろうに。なぜ良いところを特定の相手にしか発揮できないのか、謎である。
「ではこれにて」
「陛下はこの後はどこかへ?」
「私か? 私は、この後、アンを連れて会議へ出る」
「そうですか」
「何か問題があっただろうか?」
「いえ、ふと気になっただけです」
オイラーはふっと頬を緩める。
「アンの良いところをしっかり皆にアピールしておくので、安心していてくれ」
何やら嬉しげなオイラーである。
……いや、彼はそういう人だった。
アンダーについて話す時のオイラーは基本嬉しそうなのだ。
余程大切なのだな、と、改めて感じるサルキア。
「さ、行こう。アン」
「はいよー」
歩き出す二人。
すれ違う時に。
「お嬢、アンタめちゃいーよ」
アンダーはさらりと述べる。
不意に褒められたサルキアは頬を赤らめながら何度も目をぱちぱちさせる。
「……や、やめてください、からかうのは」




