114.頭の整理がしたくて
朝、興味津々な面持ちで色々尋ねてくるオイラーを振り払うように部屋を出たアンダーは、中庭の片隅にある手洗い場で顔を洗い流した。
乱雑な洗い方をしたせいで濡れた髪の先から水滴が落ちる。
アンダーは暫し思考を停止させていた。
石で作られた手洗い場の縁に両手をついて、身体をやや前向きに倒しつつ俯いている。
水分を含んだ黒髪は長い部分が心なしか頬に張りついているが、そんなことは気にせず、彼はただ一人その場に佇んでいた。
その表情は真冬の水と同じくらい冷たい。
何を見つめるでもない紅の双眸は極寒の地の地底に眠る魔物のそれのような異常なほどの鋭さを宿していた。
そうでもしていないと、水を入れ過ぎた器が壊れるように――脳が破裂してしまいそうだったのだ。
一度平常心を取り戻す必要がある。
「アンダー」
そんな彼に背後から声をかける女性が一人。
「……何?」
アンダーは声の主へちらりと目をやる。
まだ抜けきらない鋭さが顔面に残っている。
そんな彼の目に映ったのは背筋をぴんと伸ばして立っているジルゼッタであった。
「これはあくまで私の勝手な想像だが、その心にはどうやら動揺に似たものがあるようだ」
「近寄んな」
「そうピリピリしないでもらえると嬉しいのだが」
「失せろ」
睨まれても一切動じないあたりさすがのジルゼッタ。
彼女は長い脚を動かし流れるような足取りでアンダーに接近する。そしてすぐに手が届くような距離にまで近づいた。アンダーは警戒したように視線による圧を強める。そんな彼の肩にジルゼッタはぽんと片手を置く。だがアンダーはその手を容赦なく払い除けた。
しかしそれでもなおジルゼッタは恐れはしない。
「ここは一度動いてリセットするというのはどうだろう」
彼女はその整った凛々しい面に春の日差しのような笑みを薄く滲ませる。
「私で良ければ、相手になろう」
この時を心待ちにしていた、というような表情を向けられて、アンダーは不快そうな面持ちになる。
「戦えば少しは心も軽くなるに違いない」
「勝手に話進めんな」
「だが今のままでいても心は乱れる一方、そうではないか?」
戦いに生きてきた者が平常心を取り戻すには戦うのが一番だ、と、ジルゼッタはその口もとを動かした。
「もちろん貴方が負傷後であるということは考慮して相手する。無茶苦茶なことはしないので、そこは安心してもらって構わない」
敢えてそんなことを言うジルゼッタに。
「舐めてんのか」
「いや、それはない。あくまで配慮だ」
アンダーは少しばかり苛立ちを見せる。
「武器無し、素手のみでどうだろう? その条件であれば貴方の方が有利だと思うので、それにて提案したいと考えている。私もちょうど少し鍛錬したいところだったので、良い機会であるとは思うのだが」
ジルゼッタは以前よりアンダーと戦うことを望んでいた。ゆえにここぞとばかりに押していくのである。
もっとも、これまではそういう話を振ってもするりとかわされるばかりだったのだが。
「受けてくれるだろうか?」
ジルゼッタの騎士のような眼差しを向けられたアンダーは。
「……ちょっとだけな」
低い声でそう発した。
場所を変えた二人。
冷たい風が吹き抜ける中庭にて向かい合う。
「きゃーっ! 始まるわっ」
「ジル様はやはりとても素敵ねぇ」
「うっとりしちゃうわね」
「好きぃぃぃぃ!」
ジルゼッタファンの女性たちは今日もしっかりとジルゼッタを見にやって来ている。
柱の陰から覗き見る彼女たちの頬は紅潮している。
その表情はまるで恋に恋する乙女であるかのような可憐さを感じさせるものであった。
「でも相手があの男だなんて、少し残念だわっ」
「駄目よぉ、そんなこと言っちゃ。それにいいじゃない。ジル様が勝つだけなのだからぁ」
「早くもっとうっとりしたいわね」
「好きすぎるぅぅぅぅ!」
ジルゼッタとアンダーの視線が交差する。
長いポニーテールを風に揺らすジルゼッタはこれからの展開に期待するような目をしている。
一方でアンダーは、ややこしいことに巻き込まれた、とでも言いたげな顔をしている。
空気が冷える時期になると中庭の植物の華やかさも徐々に薄れてゆく。
ただ、それでも空は澄んでいて、高い。
――そして戦いは始まった。
ジルゼッタは長い手足を活かし、一気に踏み込んで相手の手首を掴もうとする。しかしアンダーはそれを軽く払い除けた。片手だけで、パワーもさほど使わず、それでいて素早く相手の狙いを跳ね除ける技術は高い。
「一度は貴方とやりあってみたかった」
クールさの中に戦闘への情熱を宿すジルゼッタは日頃より活き活きとした顔つきで拳を突き出す。
だが対するアンダーは張りきってはいない。
ただ冷静に目の前に迫る攻撃を払い除けるだけである。
「こんなに心躍ることはない!」
アンダーは片足を軸に腰から回すように蹴りを繰り出す。
一時は立つこともままならない状態となっていた足から繰り出される蹴りだが、その鋭さは健在である。
そのつま先がジルゼッタの頬を掠めて、それによって彼女はより一層楽しげな面持ちになった。
高揚感に目を見開く彼女はアンダーの襟を掴んだ、が、次の瞬間襟を掴んでいる手の手首辺りを逆に掴まれて。そこから捻りをかけるように回転させられ、投げられた。
体格で言えばジルゼッタの方が勝っているが、腕力の面ではアンダーも負けてはいない。
それでも咄嗟に対応したジルゼッタ、即座に片手を地面について体勢を整える――しかし彼女が次の攻撃へ移るより早く、アンダーが放った蹴りが喉もとに突き刺さった。
きゃああ、と、ファンの女性たちが悲鳴をあげる。
だが当のジルゼッタはというと爽やかに笑っていた。
「想像通り、やはり強いな」
私の負けだ、と、あっさり口にする。
「今のでどのくらいの本気度だろうか?」
「……こんなん一割も出してねぇ」
「それは凄いな」
「……や、出してねぇ、てか……出せてねぇってのが正しーのかもな」
アンダーは少し寂しそうに見解を述べる。
僅かに顎を引いて、しっとりと垂れた髪が作る影の中で、彼は独り言のように「どーしよーもねーな」と呟いていた。
「もういーよな」
吐き捨てるように発されるジルゼッタだが気を悪くしてはいない。
「んじゃ、帰るわ」
短く言って去ってゆくアンダーの足取りが日頃のそれに近いものになっているのを見て、ジルゼッタは安堵する。
少しでも本来の彼を取り戻してくれれば良いのだが。
そんなことを思うジルゼッタであった。
◆
余計なことに時間を使ってしまった、と思いながら、アンダーは音のない通路を歩く。
こうして一人で歩いていると遠い記憶が蘇るようだ。
まだ隣に誰もいなかった頃を思い出す。
「……アンダー!」
聞き慣れた声がして、アンダーは面を持ち上げた。
嬉しそうな顔をしたサルキアが目に映る。
軽やかに駆けてくるのが視界に入って、どんな顔で接すれば良いものか若干迷ってしまう。
「偶然ですね、こんなところで会うなんて」
サルキアはすぐにアンダーの近くへやって来て、それから少し不思議そうに「一人ですか?」と尋ねる。アンダーは「おう」とだけ返す。
好き同士と言うには極めてあっさりとした、なんてことのない、至って普通な関係であるかのようなやり取りである。
「ちょっと頭の整理したくてさ」
「そうだったのですね」
だがそれもおかしなことではない。
二人とも愛しているからと四六時中いちゃつき合うなんていうほど未熟な精神の持ち主ではない。
「一人で過ごそーかな、と。顔水で洗ったり。けど、そしたらあの背の高い女に見つかっちまって」
アンダーが直前の出来事について話せば。
「ジルゼッタさんですか?」
サルキアは流れるように返す。
「あーうん多分それ。そいつに戦いの相手しろって頼まれてさぁ」
「それで、今から戦いへ向かうのですか?」
「や、もう終わった」
「既に終わった後ですか! ……それは残念です。もしそれが今からなのなら同行しようかと思ったのですが」
なんてことのない言葉を交わす。
それはとても穏やかな時間だ。
「しかし、本気の殺し合いではないとはいえ、戦うとなれば激しく動いたのでは。身体は大丈夫だったのですか?」
「どーってことねーよ」
「そうなんですね、良かった」
きっと嘘だ。
平気なふりをしているのだろう。
サルキアは内心そんな風に思っていたが、敢えてそれを口にするのも野暮だろうと考えそこに関しては何も言わないでおいた。




