113.すべての始まりもきっと、こんな寒い夜だった。
サルキアはすぐ傍にいるアンダーを深く貫くように見つめる。
ただ真っ直ぐに。
その胸に宿る想いのように揺らぎのない眼差しで。
「貴方は違うのですか?」
何も塗られておらずともほのかに艶のある唇が小さく動く。
アンダーはすぐには言葉を返せない。
寒い夜の中に、声にさえなれなかった息だけが吐き出される。
「……オレは」
一分ほど経っただろうか。
ようやく発し始めた彼は。
「めーわくかけんのが、嫌なんだ」
日頃のぶれない力強さを宿した彼とは別人のよう。
「アンタがオレを選んでも、ややこしーことになんのは目に見えてる。で、結局アンタが傷つく。だったらこのまま、感情ごと全部思い出にしちまったほーがいーって……」
そこまで言って、途切れる。
俯いた頬に伝う一筋。
流れ星のように束の間だけ煌めく。
触るだけで砕け散ってしまいそうなほど繊細な隠された核にもう少しで届きそうな気がして、サルキアは片手を彼へ伸ばした。
「呑み込まないでください」
冷えた頬に指先で触れる。
湿り気が手袋越しでも伝わってくるかのようだ。
「そうして誰かを護ろうとするたび、貴方が傷つくのですよ」
自然な流れで。
そのまま引き寄せる。
アンダーの顔はサルキアの肩に埋まった。
「……ずっとそうやって生きてきたんですね」
互いに相手の顔は見えない状態だが、サルキアとしてはその方が言いやすいこともある。
「でも、もういいんです」
サルキアは穏やかな心で彼に向き合える。
でもそれは彼から多くのものを貰ってきたからでもある。
ずっと自分は愛されないと思っていたけれど、彼が現れてそれを変えてくれた。
だからこそ、今こうして自身の心に素直であれるのだし、躊躇うことなく彼を抱き締めることもできるのだ。
ねぇ、アンダー。
――サルキアは語りかけるように言う。
「いつか、私と家族になってくれませんか?」
こんな日が来るとは思っていなかったけれど。
それでもサルキアは確かな想いを胸に宿している。
「ずっと好きです」
アンダーは何も言えないまま、ただ指先だけを震わせていた。
告げられた想いを、その先にある未来を、少し気が早いが祝福するかのように――噴き上げられた水がまだ暗い空に光の海を生み出す。
二人の顔は交差した位置にあり互いの面を直視することはできないが、それぞれが面を持ち上げてそちらを向けば同じ光を見つめることはできた。
異なる環境で生まれ育った二人が見ている世界はきっと同じものではない。
何もかもが異なっていて。
あまりにも遠すぎて。
けれども確かに、共に見据えることのできる未来もあるはずだ。
少なくともサルキアは今そう思っているしそう信じている。
◆
帰り道、隣り合って歩くサルキアとアンダーの間には何とも言えない空気が流れていた。
アンダーの頬に残る微かな涙の痕は夜の闇に隠されて見えない。
それでも確かに二人の距離は近づいた。
この夜が深まるように、彼らの関係もまた深まっている。
乗り物へと戻る道中、先に相手の手を握ったのはサルキアだった。
高貴さゆえに誰の手も掴むことのなかったその手が、初めて自身の確かな意思で掴んだもの――それが何十年も前に寒い路地裏で芽生えた命だなんて、そんな結末は誰も予想はしなかっただろう。
「アンダー。すぐでなくても構いません。でもいつか……どうか、答えを聞かせてください」
すべての始まりもきっと、こんな寒い夜だった。
その日のことを知る者などこの世にはいないだろう。
なんせ彼は愛という眼差しを誰からも向けられることなくそこに捨てられたのだから。
だがそれでも。
その時、その瞬間、ここへ至る物語が幕開けたことは事実だ。
◆
港町で催された一年に一度のイベントを終え、サルキアとアンダーは王城へと帰ってきた。
もうとても遅い時間だったので比較的速やかに解散。
サルキアは自室へ戻って眠りに落ちる。
アンダーは彼女を部屋まで送ってから過ごし慣れたオイラーの部屋へ戻った。
だがその時には既にオイラーはぐっすり眠っていて。自分の都合で遅い時間に起こしてしまうのも悪いと思ったため、アンダーは、部屋には入ったが寝ているオイラーを起こしてしまわないよう気をつけた。
椅子に腰を下ろしたアンダーは天を仰ぐ。
脳内で繰り返されるのは想い人の言葉ばかり。
「マジ、かよ……」
上向けたままの顔を手のひらで隠した彼がぽつりとこぼした言葉を耳にする者はいない。
◆
翌朝、オイラーが目覚めるとアンダーは室内の椅子に座って眠っていた。
おかえりと声をかけてから昨日のことについて色々質問をするオイラーだったが、アンダーの様子は少しばかりおかしくて。彼は始終どこかぼんやりしているような、心ここに在らずというような目つきをしていた。
しかも話の途中で「ちょっと一人になりてぇんだ」などと言って部屋から出ていってしまって。
そんな状態だったのでオイラーは心配していた。
上手くいかないことがあったのではないか、と。
「――ということで、問題は発生しませんでしたが」
だがその後報告のため訪問してきたジルゼッタから。
「サルキア殿がアンダーにプロポーズのようなことをなさったようでした」
驚くべき事実を聞かされることとなり。
「な……」
「お二人は非常に親しくされているようです」
「さ、サルキアが……プロポーズ? アンに? 逆……ではなく?」
日頃は淡々とした調子で会話することの多いオイラーだが、この時ばかりはさすがに驚いたような戸惑ったようなそんな顔をしてしまっていた。
「近くで確認したわけではありませんので曖昧な部分もありますが、そのようでした」
ただ、オイラーが珍しく目立った表情を浮かべていても、ジルゼッタは別段不快そうな顔はしない。
「サルキアが、なのか……」
「アンダーは何か弱っていたようです。精神的に」
ジルゼッタは淡々と手にしている情報を明かす。
「で、支えたい励ましたいとお考えになったサルキア様が想いを伝えられた――というような展開かと思われます」
サルキアとアンダーが互いを想っていることはオイラーとて知らなかったわけではない。
だが、女性であるサルキアからプロポーズのような言葉を告げたというのは、地味なことながらかなり驚きなことであった。
「報告、感謝する」
「いえいえ。それでは私は、これにて、失礼します」
ジルゼッタは一礼し去っていく。
(今朝アンの様子がおかしかったのは……もしや、プロポーズされたからだったのか?)




