112.永遠に忘れない
今夜のイベントの会場となる港町付近に到着すると、サルキアとアンダーは馬車のようなそれから降りる。
寒い季節なだけあって、風を浴びるだけでも思わず身震いしてしまう。サルキアはブラウスとズボンを着ているが、その上にカーディガンを羽織り、さらにコートをまとっている。が、それでも身が冷えるのを感じずにはいられない。
海が近いからかどこからか潮の匂いが漂ってきて、それは香水のように服や髪に絡みつく。
「よければ少しお茶でもしませんか? まだ時間ありますし」
「オレと茶して楽しーのかよ」
「はい! 貴方となら何だって楽しいです」
空気の冷たさは二人の距離を近づける。
こうも寒いと意図するまでもなく通常より接近してしまうものだ。
「んじゃ、ま、行くか」
サルキアの希望もあり、二人は近くの喫茶店に入ることとなった。
お茶を飲み、軽食で腹をある程度満たして、イベントの開始に備える。
天まで突き抜けるような噴水が見どころの『光る噴水祭り』を最も堪能できる場所、ということで、近くの高台にまで移動した。
「ここからならとても良く見えそうですね」
「そだな」
加えて、ここなら人も少ない。
ゆえに二人きりで心ゆくまで楽しむことができるだろう。
光の柱を存分に味わえること間違いなしだ。
「もーすぐか」
「そうですね」
木製のベンチに腰を下ろした二人は恋人のように寄り添い合って短い言葉を交わす。
サルキアはさりげなくアンダーの手を握った。
アンダーはいきなりのことに一瞬ぎょっとしたような顔をしてしまったが、それは不快だったからではなく、突然のことへの驚きと恥じらいとが入り混じっての反応である。
「とても、楽しみです」
吹き抜ける風は冷たいが、胸の内はとても温かい――その心地よさに心臓まで溶かされるサルキアだった。
光に包まれ、天を貫く噴水。
それは何もかも忘れてしまいそうなほどに美しかった。
まるでこの世界のものではない何かが見る者に魅了魔法でもかけたかのようだ。
とうに日は落ちて、空は黒く染まっている。
灯りはところどころにはあるがそれでも辺りは薄暗い、が、だからこそ煌めくものがより一層美しく見えるというものだ。
水とは不思議な力を宿している。澄んだ川でもそうだが、透明で明確な形のないそれをじっと見つめていると、この世界の深淵を見つめているような気になってくるものだ。不確かで、しかし、根源たる存在。掴めない輪郭、だからこそ惹きつけられてしまう。
もしかしたらそれは、水がなければ生きてゆけない生命が本能的に求めているからなのかもしれない。
そんな水が高く噴き上げられているだけでもかなり幻想的なのに。そこへさらに複雑に交差するような光が当てられているものだから、輝きはますます増している。
水滴、その一粒一粒が、光を照り返し宝石のような煌めきを身にまとう。
サルキアはふと横へ目をやった。
アンダーはその血のように赤い瞳で天に届きそうな輝きを凝視している。
その顔つきは、こんなに美しいものは初めて見た、とでも言っているかのようなものだ。
「気に入りましたか?」
思いきって尋ねるサルキア。
「……すげぇな、コレ」
アンダーは噴水の方へ視線を向けたまま呟くように答えを発した。
その瞳は――否、魂の奥底まで――彼は、美しい煌めきに呑み込まれているかのようだった。
「気に入っていただけたなら何よりです」
それから少し時間が経って。
「なぁ、お嬢」
直前まで光る噴水に魅了され言葉を失くしていたアンダーが唐突に口を開いた。
「今日連れてきてくれてありがとな」
夜の匂いのただなかで突然感謝を告げられて、サルキアは戸惑いをはらんだ表情を浮かべながら隣にいる彼へと目をやる。
アンダーは片手をベンチの座面につくと胴を軽く捻り上半身の前面をサルキアの方へ向けた。
深紅にも似た双眸から放たれる揺らぎのない視線がサルキアの瞳を心を貫く。
「一生、思い出にするわ」
現在を過去に流すようなどこか切なげな面持ちでアンダーは言った。
その言葉に。
その表情に。
違和感を覚えたサルキアは「なぜそんな、これでもう終わり、みたいな言い方をするのですか?」と問いかける。
アンダーは口を閉じてしまい、すぐには何も返さなかった。
……もっとも、返さなかったなのか返せなかったなのか、そこは定かではないが。
それから数十秒ほど間があって。
「あのさ」
一旦言葉を切る。
それは、彼が抱える躊躇いゆえだった。
アンダーは基本思ったことは何でも言えるタイプの人間だ。相手が位の高い者であったとしても躊躇いはしない。どんな地位の人間が相手であっても言いたいことは堂々と言ってのけることができる、そういう才能を彼は持っている。
けれども例外もあるのだ。
大切に想う人の幸せを願う――その心だけは、時に、アンダーという人間に躊躇いを抱かせる。
「もし、オレが隣にいることでアンタが傷つくんなら……オレは、アンタの隣にいられなくてもいーんだ」
「え」
「優先すべきはアンタの幸せだろ?」
サルキアは紅を見つめながら二つの瞳を震わせていた。
「オレのせーでアンタが泣くことになんなら、やっぱそーいうのは、駄目だって思って。そんなんオレの望みじゃねーし。アンタを悲しませてまで望み叶えてぇとかはねーから」
冷たい風が吹き抜ける。
二色、それぞれの髪が交じるかのように揺れる。
「けどな」
枯れた葉が乾いた音を鳴らしつつどこかへ飛んでゆく。
「こうやってアンタと過ごせた時間があったことは、永遠に忘れねーよ」
――どんな未来が待っていても。
そう言ってアンダーは秋風のように笑う。
夜の闇の中で黒い髪をなびかせるその姿を見ていると、風が吹けば飛んでいってしまいそうに感じられて、サルキアは心なしか不安になった。
「アンダー」
不安の波に揺られる小舟に孤独なままで乗り続けるのは嫌だ、と、サルキアは口を開く。
「私はずっと貴方と一緒にいたいです」
灰色の瞳に深まる夜が影を滲ませるけれど。
「傷つくことも泣くこともあるかもしれないけれど、そんなのは大したことじゃないわ」
それでも彼女は想いを紡ぐ。
「何度でも言いましょう」
たくさん悩んで、たくさんの痛みを乗り越えて、そうやってようやく手に入れたもの。それを手放すようなことはしたくない。
だからサルキアは勇気を抱いて強く前を向く。
「私はずっと貴方と一緒にいたい」
確かな決意を胸に。
もう一度繰り返した。




