110.気持ちの整理は簡単でない?
兄もきっと、こんな想いをしながら歩んできたのだろう――。
サルキアはアンダーが皆に理解されないことに息が詰まるような思いを抱えている。そして、それと同時に、オイラーもまたこんな気持ちを抱えてきたのだろうな、と想像する。
国のために身体を張るアンダーがその出自ゆえに冷ややかな目を向けられているという事実にどうしても耐えられない。
最初から分かっていたことだ。
彼と仲良くしていたらそういうことを言われる時が来ることなんて。
でも、それでもいいと、思っていたはずだった。
なのに今は心の整理ができなくて。
大切なもの、愛しいもの――そういったものを鋭い刃のような言葉で否定されることは自分自身を否定されること以上に痛みを伴う。
「ごめんなさい、アンダー、本来失礼なことを言われて一番傷つくのは貴方だというのに……」
「や、慣れてっから」
「なのに、私、こんな時でさえ励ましてもらって……どうしようもなく情けなく思います……」
はいはい、とこぼしながら、アンダーはサルキアの頭を撫でる。
しゅんとしてしまっているサルキアはまるで幼い子どものようで。
それゆえどうしても放っておけない。
本来自分のような人間が気軽に触れられる位の人ではない、そう知りながらも、つい構ってしまう――そんなアンダーであった。
あの後、少し落ち着いたサルキアは、ランのところへ行った。そして声をかけてもらった際のことを謝罪する。ランは怒ってはおらず、むしろ、サルキアの精神状態を心配していた。事情を知った彼女はサルキアの気持ちに共感しつつ謝らなくていいとはっきり述べて寄り添う意思を見せる。
サルキアとラン、二人の関係にひびが入ることはなかった。
◆
「なーんかさぁ」
オイラーの自室で以前のように同じ時間を過ごしていたアンダーが唐突に発した。
「どうした?」
「やっぱ迷惑かなとか思うわ」
車椅子から下りたアンダーは、今、ベッドの上という過ごし慣れた場所に身を置いている。
国王のために用意されたベッドは良質で、それゆえ、アンダーの複数箇所痛めた身体でも負担を気にせず気ままに寝転がっていることができる。
「オレがいるせーでお嬢泣いてんのはあんまいい気しねーな」
天井を見上げて溜め息をつくアンダー。
「泣いていたのか?」
「周りに色々言われたみてーでさ」
ハードカバーの分厚い本を読んでいたオイラーは椅子ごと身を反転させてベッドの方へ身体の前面を向けた。
「そうだったのか。……君の価値を皆に正しく理解してもらうというのはなかなか難しいことだからな」
自分も苦労した、とでも言いたげな面持ち。
「だが少し意外だ。君がそういったことを気にするとは」
「んー、まぁな、ありゃちょっとかわいそーだよ」
「君のことだから『選択の結果だ、諦めろ』みたいなことを言うのかと思ったが、どうやらそうではなかったようだ」
オイラーは言ってから、ふ、と目を伏せつつ笑みを浮かべる。
「君は本当に、サルキアを大切に想ってくれているのだな」
中心を突かれて。
思わず顔を反対向けてしまう。
「もしや、照れているのか?」
「黙れ」
「そうかそうか。案外アンも可愛いところがあるな」
「マジうぜぇ……」
過ぎたことは変えられないし、歩いた道は着々と過去に変わってゆく。ゆえに後悔など無意味。だから振り返らず生きてきた。それがアンダーという人間だった。
過ぎ去った日々に目を向けなければ、そこにあった苦しみと再び対峙する必要もない――ただひたすらに前を見つめて歩む、それが彼の生き方だったのだ。
だが今の彼はどこか後悔に似た感情を抱いている。
厳密には後悔という単語が相応しいかどうかは定かでないが。
もしこんな感情が芽生えなかったら、と、そんなことをつい考えてしまうのである。
「大丈夫だ、アン」
らしくなく思い悩むアンダーに、オイラーは堂々と告げる。
「君は君のままでいい」
私はそう思う、と、付け加えて。
「なぜなら、今のままで十分魅力的だからだ」
一気にそこまで言いきった。
「サルキアだってきっとそう言うと思う」
オイラーは純粋に微笑むのだが、浮かない顔のままのアンダーは頬をシーツにつけて「……けど、戦えねぇオレはただのお荷物だしさ」と諦めに似た色を吐き出す。訳もなく斜め上へ視線をやっていた赤い目が閉ざされて、影に沈むように「言い返せる言葉もねぇな」と口もとだけが動いた。
どんな時も強かった男が弱音を吐くところを見ていたら胸が痛くなって、オイラーはベッドの方へ歩いて寄っていく。
「アン、君はもっと自分の価値に気づくべきだ」
オイラーはベッドに腰掛けた。
「んだよ急に」
「戦いがすべてではない」
その澄んだ水色の瞳にじっと見つめられて。
「うっせぇな! アンタには分かんねーんだよ、オレの気持ちなんて!」
思わず鋭く言い放ってしまうアンダー。
彼は発し終えた数秒後にやってしまったというような顔をした、が、その時オイラーはまた柔らかく微笑んでいて。
「そうだな、他人の気持ちを完全に理解することは不可能に近い」
突き放すようなことを言ったのに優しく包まれてしまったアンダーは寝転がったまま戸惑ったような表情を滲ませる。
「だからこそ、一番の理解者である君自身が君の気持ちを大切にするべきなのだろう」
「……何言ってんだ真剣な顔して」
「雑音があろうとも、君の真の気持ちは変わらないのだろう? ならばそれに正直でいればいい」
そこまで言って、オイラーは「なんて、偉そうなことを言えるほど偉大な人間ではないのだがな」と付け加えてから苦笑した。
皆から偉大な王と呼ばれてもなおオイラーはオイラーのままで。
その瞳の謙虚さに、その表情の純粋さに、こうして隣にいるだけでなぜか深く癒やされる。
思い返せば長い間彼の傍にいたアンダーだが、それは多分、水を飲むようなものだったのだろう。
アンダーに出会って、オイラーがずっと欲しかった普通の友人を手に入れたように。
アンダーもまた、オイラーと出会うことで、自然ななりゆきとしてそれまでずっと手に入れられなかった安心できる居場所というものを手に入れた。
――でも。
お互いに完璧な人間であるわけではないし。
お互いのことを隅から隅まで理解しきれるわけでもない。
「今さら何を迷うんだ? ずっと前からアンの良いところは正直なところだろう、ただそのままの君でいればいいだけのことじゃないか」
穢れなき瞳で見つめられたアンダーは、そうじゃねぇ、と心の中で呟きながらも、かけられた言葉を乱雑に振り払うことはしない。
(この気持ちはきっと分かってもらえねーんだろーなぁ)
だがそれは仕方のないことだとアンダーは考えている。
事実、ここまで歩んできた中で、一番の親友である彼の気持ちが理解できなかったこともあった。
つまりお互い様ということだ。
自分には理解できない相手の感情も、相手が理解できない自分の感情も、二人が生きた人間である限り存在するもの。
「んー、そだな」
それでもなんだかんだ生きてゆくのが人間なら。
「ありがとな」
すべてを理解してもらう必要なんてないのだろう。




