108.願いが叶う日なんて
オイラーとエリカは一つのローテーブルを挟み向かい合わせに一人用ソファに腰掛けている。
エリカが護衛を連れていない今、自身だけが護衛を連れているのも変だろうと考えたオイラー。彼は今日ここへ護衛は連れてこなかった。アンダーさえも、だ。彼は一人でエリカの前に姿を晒している。
「あの女も、わらわの敵意を無視するかのようにいつも笑顔で接してきておった」
溜め息をついて、エリカは話す。
「お茶会に誘った時も、わらわの心を知っていてそれでもなお、当たり前のようにやって来たほど。呑気というか何というか……まぁやつはとにかくそういう無防備な女で、だからこそ、不愉快さが掻き立てられていたのだ」
エリカの話すことを聞いて。
「母は貴女とも仲良くしたかったのだと思います」
オイラーは見解を述べた。
「同じ、夫人として」
真っ直ぐな眼差しを向けられたエリカは、自ら視線を逸らし、太もも辺りに置いていた拳を強く握り締める。感情の波をこらえているかのように。外からは見えないところで、爪が手のひらに深く食い込んでいた。
「そういうところが不快だったのだ」
「エリカさん、貴女がもし母を本当の意味で見つめてくれていたなら、母と貴女は友になれたかもしれなかったと――そう思うこともあります」
「生温いわ。そのようなこと、あるわけがなかろう。わらわの方が愛されておるならともかく、愛する人にわらわより愛されている女となど、親しくできるわけがなかろう」
吐き捨てるエリカはどこか悲しげな顔をしていて。
「そんな未来はなかったのだ、我々には」
きっと彼女は孤独を背負い続けてきたのだろう、と、オイラーは思った。
寄り添う者がいれば。
支える者がいれば。
もしかしたらエリカという人間はそこまで黒く染まりはしなかったのかもしれない。
もっとも、今さら何を言っても無駄なのだが。
……過去には戻れないのだから。
「それで、お主はわらわをどうするつもりなのだ?」
やがてエリカはオイラーへ視線を向けた。
「わらわはお主の母親を殺した女ぞ」
今度はオイラーが目を逸らす番だった。
気まずさのあまり彼女を直視できない。
「復讐したければすれば良い」
何の迷いもない顔つきでエリカはそんなことを言ってのける。
もはやこれには何の価値もない。
そう言おうとしているかのように。
「殺したければそうすれば良いのだ」
オイラーは少しばかり目を伏せて斜め下を見つめ思考する。
「私、は」
果てに、口が動く。
「……復讐は望まない」
サルキアの母であるという事実ゆえか、また別の理由があるのか、定かではなかったが――この時オイラーはなぜかエリカを葬り去ってしまいたいとは思わなかった。
彼女もまたアンダーを傷つけようとしていた人間だ。
本来であれば憎いはずなのに。
「今の貴女を殺すことに意味などない、そう思うからです」
心のどこかにエリカを庇っている自分がいて。
そのことに戸惑いながらも、オイラーは率直な思いを口にする。
「貴女の罪は消えない。しかしだからこそ敢えて私が復讐する必要などないのです。復讐しようとも、殺めようとも、その罪が消えることも亡き母が返ってくることもないのですから」
無意味だ、と、彼ははっきりと言った。
「私は……いつまでも過去に縛られているより、未来を見つめたい」
エリカは黙っている。
二人きりの室内は静けさに包まれている。
「私の選択を母ならきっと理解し受け入れてくれると思います」
オイラーはやや俯きながら言葉を紡ぐ。
「……母上は、そういう方でした」
◆
「アンダー、すみません、先日は返し忘れてしまって」
「や、べつに気にしてねーよ」
今日サルキアはようやくアンダーにブレスレットを返すことができた。
いつだったかランが街で買ってきてくれたお揃いのブレスレット。彼が戦場へ行く時預けていったものだ。帰ってきた彼に返さなくてはと思っていたのにたびたびうっかり忘れてしまって。そのうちに時が過ぎていっていた。
「てか気に入ったんならアンタ持っとくか?」
「どういう意味ですか」
「予備としてアンタにあげてもいーよ、ってこと」
「駄目です!」
サルキアが予想以上に大きな声を出したので心なしか驚いたような顔をするアンダー。
「それではお揃いでなくなってしまいます!」
「声でけぇ」
思わぬ指摘にサルキアは赤面。
「すみません……」
なぜか唐突に素直さを発揮していた。
「ですが、それは貴方が持っていてください」
「いーのか?」
「私には私の分がありますから」
「ふぅん」
アンダーの状態は徐々に改善に向かっている。
一時はほぼ完全に脱力していた右腕は少しずつではあるが動かせるようになってきているし、両足も痛みは伴うもののあと数日もあれば思い通りに操れるようになりそうだ。
彼自身これほどのダメージを受けた経験はあまりないため最初は戸惑いも大きかった、が、今ではそれにも慣れて。動かしづらい身体の使い方というものにも段々馴染んできた。
「じゃ、いちおー貰っとくわ」
アンダーは口角を持ち上げる。
その表情を目にして、サルキアは、彼が怒っていないのだと理解することができた。
「ところで、『光る噴水祭り』の件なのですが、一緒に行ってくださいますか?」
「お嬢好きだなぁ、その話」
「はい。好きです。……ずっと楽しみにしていましたから」
あの美しい光景を母以外の誰かと見てみたい。
できるなら大切に想える人と。
願いが叶う日なんて来ないと思っていたけれど、ようやく共に見たいと思える人に巡り会えた。
だから。
「アンダー、貴方と行きたいです」
サルキアは車椅子に座った彼を真っ直ぐに見つめて言い放った。
数秒の沈黙の後「駄目でしょうか」と繋げ、さらに、先ほどより控えめに「嫌ならそう言ってください」と続ける。
アンダーはすぐには答えられなかった。
だが数十ほど数えた後で。
どこか気まずそうな面持ちで一つそっと頷く。
「そだな」
彼はようやく答えを導き出した。
「行こ」
耳にしたサルキアの面に広がる色は安堵。
安堵という絵の具を水に溶かして顔中に塗り広げたかのようだ。
「たまにはそーいうのも悪くねーかもな」
「ありがとうございます」




