第6話:王の審問と知の光芒
リリィが去った後、リンは書庫へと戻った。心臓の鼓動がまだ耳元で響いている。羊皮紙の切れ端は、今はリリィの懐の中だ。彼女が約束通り、然るべき部署へ情報を届けてくれることを祈るしかなかった。しかし、果たして最下級の書庫番の言葉が、王宮の重い扉をこじ開けることができるのか。不安が、鉛のように胸の奥に沈んでいた。
その不安は、数日後に現実のものとなる。
「リン! お前だ、書庫番のリンという娘は!」
書庫の入り口に、普段は決して足を踏み入れないような、上級官僚らしき男が立っていた。きらびやかな衣装を纏い、顔には怒りとも苛立ちともつかない表情を浮かべている。その背後には、見慣れない屈強な近衛兵が二人、無言で控えていた。ザックが驚いた顔でその光景を眺めている。
リンは、直感した。来た、と。
「は、はい、私がリンでございます」
リンは震える声で答えた。男は鋭い眼光でリンを睨みつける。
「貴様、典薬局のリリィに、第二王子殿下の病について、まことしやかな嘘を吹き込んだと聞く。王子の病を弄ぶなど、言語道断! 今すぐ私と来るのだ。王が貴様を直接、審問すると仰せだ!」
審問。その言葉が、リンの頭に重く響いた。最悪の事態だ。いきなり王の前に引き出されるとは。しかし、同時に、彼女の話が王の耳に届いたということでもある。
近衛兵に腕を掴まれ、リンは書庫を出た。ザックが呆然とした顔で見送る中、リンは引きずるようにして王宮の奥へと連れて行かれる。慣れない上等な絨毯が敷かれた廊下、豪華絢爛な装飾の数々。リンの粗末な衣装と煤けた顔は、まるで場違いな存在だった。
たどり着いたのは、謁見の間よりも小ぶりだが、それでも威厳に満ちた一室だった。そこには、数名の高官と、そして玉座に座る国王の姿があった。国王の顔は、愛する息子が病に伏せっている焦燥からか、普段の威厳に加え、深い疲労の色が浮かんでいた。その傍らには、典薬局のリリィが、憔悴しきった表情で立っている。彼女の目がリンと合い、申し訳なさそうに伏せられた。どうやら、リリィは正直に情報を出したらしい。そして、それが王の逆鱗に触れたのだ。
「貴様が、アレンの病について、奇妙な書物を持ち出したという書庫番か」
国王の声は低く、重かった。その一言だけで、部屋の空気が凍り付くかのようだった。リンは膝をつき、深く頭を垂れた。
「はい、陛下。わたくし、リンと申します。至らぬ身ではございますが、第二王子殿下の病を治す手がかりがあると信じております」
「ほう? 典薬局のリリィは、貴様が古文書の奇妙な記述を読んだと申しておった。しかし、これまで数多の医師が匙を投げた病だ。貴様のような小娘に、一体何が分かるというのだ?」
嘲りにも似た声が、高官たちからも上がった。彼らの目には、リンは滑稽な存在と映っていることだろう。
「陛下! どうか、この者の戯言にお耳を貸さぬよう! 王子の病を弄ぶなど、不敬罪に当たります!」
上奏省の官僚が、すかさず進言した。リンの言葉は、まるで泡のように消え去ろうとしていた。
その時、リンは顔を上げた。大きな眼鏡の奥の瞳は、真っ直ぐに国王を見据えていた。震えはあったが、その視線には揺るぎない確信があった。
「陛下。わたくしが読み解いた古文書には、第二王子殿下の病と酷似した症状が、**『土壌の澱み』**という病として記されておりました。それは、特定の鉱物から発生する微細な粒子が体内に蓄積し、臓腑を蝕むことで発症するものです。そして、その原因となる鉱物は、王宮内の特定の場所に存在すると示唆されております」
リンは、書物に記された内容を、一切の脚色なく、しかし簡潔に、淀みなく語った。国王の表情が、わずかに変わった。高官たちの間にも、さざ波のような動揺が広がる。彼らが聞いたことのない病理と、具体的な「原因」の提示。
「そのような奇妙な病、聞いたことがない。ましてや、王宮内に原因があるなど、寝言は寝て言え!」
ある高官が苛立ちを露わにした。しかし、リンはひるまなかった。
「まさしく、その通りでございます。この病は極めて稀で、特定の条件下でのみ発症します。そして、古文書には、その唯一の治療法として**『浄化の儀』**が記されております。特定の薬草と水を調合し、体内の粒子を洗い流す古の儀式でございます」
リンは、リリィに渡した羊皮紙の切れ端に記した、治療法の概要まで語り終えた。彼女の口から紡ぎ出される言葉は、煤にまみれた最下級書庫番の姿とは裏腹に、確かな知識の光を放っていた。
国王は、腕を組み、深く考え込んでいた。彼の息子は、今も生死の境を彷徨っている。宮廷医師団の言葉は、もう耳には届かない。もし、この奇妙な少女の言葉に、わずかでも真実が隠されているのなら……。
「典薬局のリリィよ」
国王の声に、リリィがはっと顔を上げた。
「お前は、この書庫番の言葉をどう思う?」
リリィは、迷った。しかし、リンの言葉の背後にある、論理的な整合性と、彼女自身の知識では知り得ない情報量に、既に一縷の望みを抱いていた。
「陛下。この書庫番の娘が示した記述は、わたくしがこれまで学んだいかなる病理学にも属しません。しかし、その内容があまりにも詳細で、具体的な解決策まで提示されている点に、無視できないものがあるかと存じます。…あくまで、一縷の望みではございますが」
リリィの言葉が、国王の背中を押した。国王は再びリンに目を向けた。その目は、まだ完全な信頼ではないが、明確な興味を帯びていた。
「よし。ならば、貴様の知識が真実かどうか、試してやろう」
国王の言葉が、部屋に響き渡った。リンは、心の中で深く息をついた。
(やった……!)
審問は、リンにとって命懸けの賭けだった。だが、彼女は、知識という武器を手に、最初の関門を突破したのだ。次なる試練は、彼女の知識の**「証明」**だ。




