第56話 後宮の余波と新たな兆し
書庫の窓から差し込む朝の光が、埃を含んだ空気に淡く溶ける。リンは机に座り、香灰の層を指先でなぞりながら、深く息を吐いた。
「……迷宮は終わった。影の正体も、後宮の秘密も、すべて明らかになった」
しかし、王宮の空気は、まだ落ち着きを取り戻してはいない。後宮の者たちの視線、女官や宦官のささやき、すべてが微妙な緊張を孕んでいる。
「でも、この静けさも、ほんの束の間……」
リンは自分の掌を見つめる。知識が力となった瞬間、王宮での自分の存在感が変わったことを実感する。宮廷医師団も、従来の侮蔑を取り下げ、彼女の判断を頼るようになった。
廊下を通る足音、奥の庭園で揺れる木々のざわめき、すべてが耳に届く。後宮の者たちの感情の揺れ、微かな動揺も見逃さない。リンは知る。
「この力を持つ者として、守るべきものも増えた。次に訪れる災厄への備えも……」
その時、典薬局のリリィが執務室に入ってきた。手には新たな薬草の標本と報告書。
「リン、見て。東の交易商人からの薬草だけど、香の性質が以前の『夜明けの雫』と酷似している。効能は優れているけど、毒性もある」
リンは報告書を受け取り、慎重に目を通す。香と薬草の特性は、後宮の心理操作や災厄の予兆にも関わる重要な要素だ。
「……使い方を誤れば、また災厄を招きかねない。だけど、正しく使えば、人々を救う力になる」
リリィが微かに笑みを浮かべ、リンを見つめる。
「やっぱり、あなたがいないと、この王宮は回らないわね」
リンは軽く頷き、窓の外に目をやる。庭園は青々とした緑に包まれ、空は柔らかな光に満ちている。しかし、古文書の警告を思い出すと、その安堵は一時的なものに思えた。
『浄化の儀は一時的な安寧をもたらす。真の澱みが大地に根差せば、更なる災厄が訪れる……』
リンの胸に、新たな決意が芽生える。王宮の平穏は、彼女が知識と観察眼を持って守り続ける必要がある。そして、次に迫る未知の災厄に立ち向かうため、彼女は準備を始めるのだった。
「新たな知識を集め、未知の脅威に備える……これが、私の役目」
書庫の静寂に、リンの決意だけが深く響く。迷宮の核心を突破した少女は、王宮の光と影を見据え、次なる戦いへの足を踏み出した。




