第5話:薬と知識の取引
「何か、御用でしょうか、書庫番さん?」
典薬局の女性の声は、事務的でありながらも、どこか探るような響きを含んでいた。リンは、背筋を伸ばし、握りしめていた羊皮紙の切れ端が、手のひらの汗で少し湿っているのを感じた。
「あの、私、リンと申します。書庫番をしております。貴方は典薬局の方でいらっしゃいますか?」
リンが問いかけると、女性はわずかに目を細めた。
「ええ、私はリリィ。典薬局で薬草の管理をしています。で、書庫番のあなたが私に何の用です?」
リリィの視線は、リンの分厚い眼鏡と、煤で汚れた粗末な衣を品定めするように動いた。王宮の下働き、特に書庫番など、彼女にとって日常で関わることのない存在なのだろう。リンは、この機会を逃せば、二度とリリィと話す機会は訪れないかもしれないと直感した。
「実は、第二王子様の病について、お話ししたいことがあるのです」
リンがそう切り出すと、リリィの表情がわずかに強張った。彼女は周囲をちらりと見回し、誰も聞いていないことを確認すると、リンから一歩距離を取った。
「…無駄な詮索はしない方がいい。そのような大それた話は、あなたの出る幕ではありません」
リリィの声には、忠告の色が滲んでいた。それは、リンの身を案じているというよりは、厄介事に巻き込まれたくないという、彼女自身の保身に近いものだろう。しかし、リンはその奥に、第二王子の病に対する焦りや、解決策を求めるわずかな希望を見出した。
「私は、第二王子様の病の原因と、その治療法を知っているかもしれません。根拠は、この書物の中にあります」
リンは、懐からそっと羊皮紙の切れ端を取り出した。古文書の記述から抜き出した、病の原因と治療法の要点が記された、数枚の紙だ。リリィの目は、その羊皮紙に書かれた見慣れない文字と、詳細な図解に釘付けになった。典薬局の人間であれば、専門的な知識から、それがただの戯言ではないと気づくかもしれない。
リリィは、ためらいがちにリンの手から羊皮紙を受け取った。彼女は眼鏡をかけ、真剣な眼差しでそれを読み始めた。一文字、また一文字と追うごとに、リリィの表情は驚きに変わっていく。眉間に皺が寄り、やがて目が見開かれた。
「これは……『土壌の澱み』?そして、『浄化の儀』だと?」
リリィは呟き、リンを凝視した。その目には、警戒の色は消え、純粋な探究心と困惑が入り混じっていた。
「このような病理は、見たことも聞いたこともない。それに、この文字……一体、どこでこれを?」
「書庫の奥深くに眠っていた、サイラス帝国の古文書から見つけました」
リンは簡潔に答えた。リリィは再び羊皮紙に目を落とし、さらに深く考え込んだ。宮廷医師団が手の施しようがないと諦めた病だ。藁にもすがる思いがあるならば、この奇妙な情報に耳を傾ける価値はある。
「なぜ、これを私に?」
リリィの問いに、リンは迷いなく答えた。
「貴方は典薬局の方だからです。この治療法には、特定の薬草の調合も必要だと記されています。私には知識はありますが、それを実行する術がありません」
リリィはリンをまっすぐに見つめ返した。彼女の目は、リンの底知れない知識に驚き、そして、その小さな体が持つ決意に打たれているようだった。リンは続けた。
「どうか、この情報を王へお伝えください。私は、ただの書庫番です。私が直接王に謁見することは叶いません」
「もしこれが偽りであれば、私も、あなたもただでは済まない。王族の命に関わることだぞ」
リリィの声には、重い責任感が滲んでいた。
「もし、第二王子様が、このまま命を落とされる方が良いとお考えであれば、それでも構いません」
リンの言葉は、まるで氷の刃のように、リリィの心に突き刺さった。それは煽りではなく、純粋な事実を突きつけただけだった。リリィは、顔色を変え、一瞬言葉を失った。
沈黙が数秒流れた。庭園にそよぐ風の音だけが聞こえる。やがて、リリィは羊皮紙を慎重に折りたたみ、自身の懐にしまった。
「…わかった。私が、この情報を然るべき部署に届けてみよう。しかし、あくまで『私が書庫で偶然見つけた古い記述』としてだ。あなたが関わったことは、決して口外してはならない。私の身も危うくなる」
リリィの言葉には、迷いと、それでもわずかな希望に賭ける決意が感じられた。彼女は、王宮という巨大な組織の中で生き抜いてきた経験から、情報がどのような経路で、どのように扱われるべきかを熟知していた。
「ありがとうございます。リリィ様」
リンは深く頭を下げた。これで、少なくとも情報が王の耳に届く可能性が生まれた。だが、これはまだ始まりに過ぎない。この知識が信じられ、第二王子の治療が開始されるかどうかは、全てリリィの手に委ねられたのだ。




