第47話 香の迷宮と囁き
書庫の窓から差し込む月光に、薄く揺れる影。リンは香炉の灰をそっと指先に取り、残り香を確かめていた。沈香、蜜蠟、そしてわずかに混ざるスパイスの香り――これらが混ざった香は、単なる香ではない。人を惑わせ、心理を揺らすための計算された香。
「……この香、やはり後宮の奥深くで使われている」
リンは静かに呟き、記録帳を開いた。香木の出納、香炉の使用場所、女官や宦官の動き……一つひとつが線でつながる。
「やっぱり……誰かが計画している」
その瞬間、シュイが肩越しに覗き込む。
「リン……もしその香の正体を探るなら、僕も手伝います」
リンは微笑み、静かに首を振る。
「これは、私の仕事。香の仕組みを知る者が誰か、私自身で確認しなければならない」
机の上の香灰を指先でなぞる。わずかに残る蜜蠟の粒子。それは、煙と共に人の意識を操作する手がかり。
「……これは催眠効果だけじゃない。意図的に感覚を狂わせるための仕組みだ」
リンの心は冷静だが、胸の奥には静かな緊張が走る。書庫は安全だが、香が放つ“心理の影”を避ける術は限られている。
外の廊下からかすかに囁き声が聞こえた。リンは身を低くし、耳を澄ます。
「……誰かが、私を監視している」
囁き声は宦官のもので、しかも以前に見かけた人物の声だ。香を操る者に近づくには、まず監視の目をかわさねばならない。
リンは小さく息をつき、香灰を再び手に取り、慎重に分析を続ける。
「香の組成、使用される時間、場所……これらから、操る者の行動パターンが見えてくる」
そうしているうちに、書庫の奥からもう一つの微かな香が漂ってきた。それは沈香ではなく、わずかに甘い花の香。
「……これは“囁き香”。心理を揺らすだけじゃなく、注意をそらすための香だ」
リンは顔を引き締めた。香の迷宮は深く、後宮の影は広い。しかし、彼女は立ち止まらない。
「香を操る者……その人物は、後宮の誰かの陰に潜み、意図を持って動いている。そして、私はその迷宮の中にいる」
外の月光が、書庫の机を照らす。香の残り香は、夜の静けさに溶け込み、リンの心に冷たい決意を刻む。
「私は……この迷宮の出口を見つける。たとえ香に惑わされても、心理に翻弄されても」
リンは香灰をそっと書物の上に広げ、観察を続けた。
後宮の闇は深い。
しかし、知識と観察眼を武器に、私は必ず真実を見つけ出す。




