第44話:焼香と蜜の謎
月の光が差し込む後宮の一室。ほんのわずかに香るのは、白檀と沈香の混ざった複雑な香。香炉はすでに冷え、灰の中にはわずかに焼き残った線香の跡があった。
「やっぱり……これはおかしい」
リンは床にしゃがみこみ、小さな香灰を指先ですくい取った。滑らかに見える灰の下には、わずかに色が違う粒が混じっていた。
「これは……蜜蠟?」
側に立っていた宦官の少年・シュイが驚いた顔をする。
「蜜蠟って、ろうそくじゃないんですか?」
「うん、けど、この香灰に混ざってるのは“仕組まれた蜜蠟”だね。香に混ぜると、少しだけ甘い香りになる。でもそれだけじゃない」
リンはふっと息を吐き、小さなため息を漏らした。
「これは“催眠”の補助効果がある。香の煙と一緒に吸い込めば、うっすらと意識がぼんやりする。それに──」
指先の香灰を鼻先に持っていき、慎重に香りを確かめる。
「やっぱり。香の中に『サウワ』が混ざってる。乾燥させたサウワの花は、目を覚ました後に頭痛と吐き気を引き起こすんだよ」
「つまり……部屋にいた女官たちが倒れたのは、そのせい……?」
シュイの声が少し震えた。彼の目にはまだ、昨日見た女官の蒼白な顔が残っているのだろう。
「そう。でもね、香炉の煙だけで、あそこまで重い症状が出るには……誰かが、もっと濃く、仕込んだはず」
リンの目が細くなる。
「つまり、犯人は──香を入れた“あの一瞬”を知っていた人物」
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午後。薬房に戻ったリンは、帳簿を広げて香木の出納を確認していた。香料は宮中の厳重な管理下にあるが、実際には出入りの細工人や香師が自由に扱える部分も多い。
「この“白蛇香”の使用記録……変だな。焼香に使うには量が多すぎる」
帳簿に記された名を指でなぞりながら、リンは静かに呟いた。
「──“雪蘭”。やっぱり、あなたが鍵を握ってる」
その名は、かつて宸妃付きの香師として知られた女だった。だが宸妃が急逝した夜、雪蘭は謎の失踪を遂げている。公式には「病により退職」とされていたが、噂では「毒香」を調合していたとされていた。
「この香……ただの香じゃない。きっと“仕掛け”がある。誰かを、あるいは何かを……操るために」
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夜。後宮の奥にある静かな庭に、ひとりの女官がたたずんでいた。
「おや……こんな夜更けに、星を見ておられるのですか?」
リンの声に、女官が驚いたように振り返る。月光がその顔を照らし、浮かび上がったのは──
「……あなたが、“雪蘭”さんですね?」
女官は一瞬、目を伏せた。
「……あなたは誰に命じられて動いていますか?」
リンの問いに、女官の表情がほんの僅かに揺れた。
「答えられません。でも……わたくしが調合した香を使ったのは、わたくしではありません。わたくしは、ただ“香を創る”だけ……」
「けど、それは“毒を創る”ことと変わらないよ」
リンの声は静かだった。淡々としていて、それでいて、鋭く核心を突いていた。
「あなたが沈黙している間に、誰かが傷ついていく。誰かが、“香に眠らされ”、二度と目を覚まさなくなる」
女官──雪蘭はゆっくりと顔を上げた。
「……わたくしに会いに来たのは、あなたが初めてです」
その言葉の裏には、長い孤独と、後悔の重みが隠れていた。
「では、聞かせてください。誰が“命じた”のか。そして、何のために」
リンの言葉が、闇の奥に残された“香の真実”を照らし出す。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
「──宸妃の部屋で、また香が焚かれた。急ぎましょう、シュイ!」




