第43話:記録の棘
書庫の扉が、ぎぃ……と音を立てて閉じた。
リンは机に向かい、小さな帳面を開く。
ヨウの遺した記録──それは、ただの観察日誌ではなかった。
《この香は、嗅ぐ者の記憶を“可視化”する。だが、それを操作できるのは、“記憶の鍵”を持つ者のみ》
「……記憶の鍵?」
紙の端に描かれていたのは、精巧な紋章のような符号。
見覚えがあった──あれは、“皇族の私印”に似ている。
「つまり、香そのものが“鍵”ではなく、“鍵を持つ誰か”が操る」
リンはふと、王宮で出回っている“蝶香”を思い出した。あれは“癒やし”のためだとされていたが……
──記憶を癒やす? あるいは“書き換える”?
彼女は小さく舌打ちした。
「癒やすふりをして、忘れさせる。あるいは、都合の良い記憶に塗り替える。……これが、“治療”?」
ページをめくるたびに、ヨウの筆致が変わっていく。
最初は客観的だった記述が、次第に苦悩と怒りを孕む。
《記録者であることに意味はあるか? 真実を書き留めても、読む者がいなければそれは“虚”だ。》
リンの指が止まった。
「……読むよ。わたしは読むし、記す」
ふと、そのとき──
「こんな夜更けに熱心ですね、書庫番どの」
軽やかな声。振り向けば、そこにいたのは……
「カガチ殿?」
彼は、いつもと違う。笑ってはいるが、その目は冷たい。
「面白い書き物を見つけたと噂で聞きましてね。……ヨウ殿の記録、だったかな?」
リンは帳面をぱたんと閉じた。
「王族が書庫に足を運ぶなんて、珍しいですね」
「それだけ君が“興味深い”ということです。──禁書を解読し、記憶香の謎に迫っている。噂になってますよ、宮中で」
「では、本題をどうぞ。“警告”ですか? それとも“口封じ”?」
カガチはくつくつと笑った。
「まさか。ただの助言です。“記憶”は、民を導く光にもなるが、王を滅ぼす刃にもなる。……扱いを誤れば、あなたも“香の器”になる」
「器?」
「記憶の操作に耐えられる個体のことですよ。あなたのような、“思考力を持ちつつ、自我を強く保てる者”がね」
リンは背中をひやりと汗が伝うのを感じた。
──ああ、つまり私は、“実験体候補”というわけ。
「残念ですが。わたしは、書く側です。“記録される側”にはなりません」
カガチはくるりと背を向ける。
「それなら結構。──でも、覚えておいて。“記憶の真実”に踏み込んだ者は、みな、何かを失う」
「あなたも?」
その背に問えば、一瞬、彼の足が止まった。
「……わたしは、すでに“選んだ”身です。自分の記憶を差し出してでも、未来に立つ覚悟を」
そのまま彼は、闇に溶けて消えた。
──彼もまた、記憶に囚われている。
リンは深く息を吐き、帳面を再び開く。
ヨウの筆跡の最後には、こうあった。
《この香の製法は、王家の奥典に記されていた。だが、誰も“読めなかった”。なぜなら──“文字そのものが、記憶を封じる香で書かれていた”から》
「香で書かれた文字……」
それはつまり、“香りを焚かないと読めない文字”だ。
「もしかして──あの、黒檀の書巻が……」
思い当たる書がある。封印された、香禁目録。
リンはすぐに立ち上がった。
このまま放っておけば、王宮の記憶そのものが“書き換えられる”。
誰かが書くべきだ。歪められた真実ではない、“香りでは消せない記録”を。
──それが、書庫番の使命なら。
リンの足音が、夜の回廊に消えていった。




