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薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
43/64

第43話:記録の棘

書庫の扉が、ぎぃ……と音を立てて閉じた。


リンは机に向かい、小さな帳面を開く。

ヨウの遺した記録──それは、ただの観察日誌ではなかった。


《この香は、嗅ぐ者の記憶を“可視化”する。だが、それを操作できるのは、“記憶の鍵”を持つ者のみ》


「……記憶の鍵?」


紙の端に描かれていたのは、精巧な紋章のような符号。

見覚えがあった──あれは、“皇族の私印”に似ている。


「つまり、香そのものが“鍵”ではなく、“鍵を持つ誰か”が操る」


リンはふと、王宮で出回っている“蝶香”を思い出した。あれは“癒やし”のためだとされていたが……


──記憶を癒やす? あるいは“書き換える”?


彼女は小さく舌打ちした。


「癒やすふりをして、忘れさせる。あるいは、都合の良い記憶に塗り替える。……これが、“治療”?」


ページをめくるたびに、ヨウの筆致が変わっていく。

最初は客観的だった記述が、次第に苦悩と怒りを孕む。


《記録者であることに意味はあるか? 真実を書き留めても、読む者がいなければそれは“虚”だ。》


リンの指が止まった。


「……読むよ。わたしは読むし、記す」


ふと、そのとき──


「こんな夜更けに熱心ですね、書庫番どの」


軽やかな声。振り向けば、そこにいたのは……


「カガチ殿?」


彼は、いつもと違う。笑ってはいるが、その目は冷たい。


「面白い書き物を見つけたと噂で聞きましてね。……ヨウ殿の記録、だったかな?」


リンは帳面をぱたんと閉じた。


「王族が書庫に足を運ぶなんて、珍しいですね」


「それだけ君が“興味深い”ということです。──禁書を解読し、記憶香の謎に迫っている。噂になってますよ、宮中で」


「では、本題をどうぞ。“警告”ですか? それとも“口封じ”?」


カガチはくつくつと笑った。


「まさか。ただの助言です。“記憶”は、民を導く光にもなるが、王を滅ぼす刃にもなる。……扱いを誤れば、あなたも“香の器”になる」


「器?」


「記憶の操作に耐えられる個体のことですよ。あなたのような、“思考力を持ちつつ、自我を強く保てる者”がね」


リンは背中をひやりと汗が伝うのを感じた。


──ああ、つまり私は、“実験体候補”というわけ。


「残念ですが。わたしは、書く側です。“記録される側”にはなりません」


カガチはくるりと背を向ける。


「それなら結構。──でも、覚えておいて。“記憶の真実”に踏み込んだ者は、みな、何かを失う」


「あなたも?」


その背に問えば、一瞬、彼の足が止まった。


「……わたしは、すでに“選んだ”身です。自分の記憶を差し出してでも、未来に立つ覚悟を」


そのまま彼は、闇に溶けて消えた。


──彼もまた、記憶に囚われている。


リンは深く息を吐き、帳面を再び開く。


ヨウの筆跡の最後には、こうあった。


《この香の製法は、王家の奥典に記されていた。だが、誰も“読めなかった”。なぜなら──“文字そのものが、記憶を封じる香で書かれていた”から》


「香で書かれた文字……」


それはつまり、“香りを焚かないと読めない文字”だ。


「もしかして──あの、黒檀の書巻が……」


思い当たる書がある。封印された、香禁目録。


リンはすぐに立ち上がった。


このまま放っておけば、王宮の記憶そのものが“書き換えられる”。


誰かが書くべきだ。歪められた真実ではない、“香りでは消せない記録”を。


──それが、書庫番の使命なら。


リンの足音が、夜の回廊に消えていった。

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