第42話:記憶の扉
星見の間──
そこは、王宮のどの地図にも記されていない場所だった。
夜明け前、月と星の境界が曖昧になるころ。
リンはフウの案内で、沈黙の回廊を抜けていた。
「……変わらないですね。空気が」
フウの声が響く。何年も人が入らなかった場所にしては、香の気配が濃い。
「むしろ、記憶の香が“焚かれ続けている”せいかと」
リンは袖で口元を覆った。
微かに甘く、しかしどこか鉄の匂いに似た重さがある。
──人の記憶が、こんな匂いをしているとは。
「着きました。どうぞ、お入りください」
重い扉が音を立てて開く。
その中は──まるで、時間が凍っていた。
黒曜石の床に、ひとつの香炉。
壁には星図が刻まれ、中央には誰かの影が座っていた。
「……誰?」
リンが思わず声を落とす。
それは、年老いた女だった。着ているのは、古い侍女服。
フウがそっと答える。
「ミエです。玉葉妃に仕えていた、最後の侍女」
ミエはリンを見た。
「あなたが、ヨウ様の……」
「書庫番の、リンです。あなたに会いに来ました」
ミエの視線が、ほんの少し和らぐ。
「ここは、記憶の墓所です。香で過去を映し、心に触れる場所──“見た者は、戻れません”」
「それでも、知りたいんです。玉葉妃の最期を」
ミエは香炉に小瓶から香粉を落とした。ほの白い煙がゆっくり立ちのぼる。
「玉葉妃は“見る”能力を持っておられました。香を通して、人の過去を感じ取る力を」
「それは……薬効ではなく、“体質”?」
「はい。けれど、それは……苦しみでもありました」
ミエの語りが、煙の向こうから響く。
──ある夜、皇子が病を得た。侍医たちは治療に手をこまねいた。
すると、皇帝は妃に命じた。
“香を焚き、子の病の因果を見ろ”
妃は従い、見た。
その記憶の中にあったのは──毒を混ぜる侍女の姿。
「妃は、その侍女を告発されました」
「……それが、ミエさん?」
「いいえ、あれは“偽の記憶”でした」
リンは目を見開く。
「誰かが……妃に“別の記憶”を混ぜた?」
「そうです。“皇族にとって都合のいい真実”を見せるために、香が使われた」
リンの中で、点と点が繋がる。
蝶香の用途、記憶の混濁、ヨウの失踪。
「玉葉妃は……記憶の改竄に気づいた?」
「ええ。だから、最後には誰にも何も告げず、香に身を投じました」
──“香の匂いが、誰かの声に似ていた”と、妃は言った。
それは、皇帝の声だった。
「王の声を、香の中に感じた妃は、自分が“操られていた”ことを悟ったのです」
リンの喉が、からからに乾く。
それは、ただの“暗殺”よりずっと根深い、“人格のすり替え”だった。
「ミエさん。ヨウ様は、ここで何を?」
「……“二度と、香で人を壊さない方法”を探しておられました」
「だから、“この香は誰も救わない”と」
「香は、真実を見る道具ではない。人の意思を歪める武器にもなる……と」
沈黙が落ちた。煙はゆっくりと天井へと昇っていく。
「……あなたは、見るのですか?」
ミエの問いに、リンは少しだけ微笑む。
「わたしは、“書く”側でいたいんです。真実は、記録の中に残します」
「では、どうか。ヨウ様の記録も、あなたに」
そう言って差し出された小冊子には、丁寧な文字が並んでいた。
──“この香は、王を癒すものにあらず。むしろ、王に都合のよい偽りを香り立たせる”──
リンはそれを受け取ると、ふと部屋を見渡した。
「この場所も……いずれ、誰かの手で封じられるでしょうね」
「ええ。香を支配する者たちは、真実を恐れますから」
リンは一礼し、部屋を後にした。
星見の間の扉が閉まる音は、まるで過去との決別のようだった。
けれど、その記録は、彼女の懐にしっかりと収められていた。




