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薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
42/64

第42話:記憶の扉

星見の間──

そこは、王宮のどの地図にも記されていない場所だった。


夜明け前、月と星の境界が曖昧になるころ。

リンはフウの案内で、沈黙の回廊を抜けていた。


「……変わらないですね。空気が」


フウの声が響く。何年も人が入らなかった場所にしては、香の気配が濃い。


「むしろ、記憶の香が“焚かれ続けている”せいかと」


リンは袖で口元を覆った。

微かに甘く、しかしどこか鉄の匂いに似た重さがある。


──人の記憶が、こんな匂いをしているとは。


「着きました。どうぞ、お入りください」


重い扉が音を立てて開く。

その中は──まるで、時間が凍っていた。


黒曜石の床に、ひとつの香炉。

壁には星図が刻まれ、中央には誰かの影が座っていた。


「……誰?」


リンが思わず声を落とす。

それは、年老いた女だった。着ているのは、古い侍女服。


フウがそっと答える。


「ミエです。玉葉妃に仕えていた、最後の侍女」


ミエはリンを見た。


「あなたが、ヨウ様の……」


「書庫番の、リンです。あなたに会いに来ました」


ミエの視線が、ほんの少し和らぐ。


「ここは、記憶の墓所です。香で過去を映し、心に触れる場所──“見た者は、戻れません”」


「それでも、知りたいんです。玉葉妃の最期を」


ミエは香炉に小瓶から香粉を落とした。ほの白い煙がゆっくり立ちのぼる。


「玉葉妃は“見る”能力を持っておられました。香を通して、人の過去を感じ取る力を」


「それは……薬効ではなく、“体質”?」


「はい。けれど、それは……苦しみでもありました」


ミエの語りが、煙の向こうから響く。


──ある夜、皇子が病を得た。侍医たちは治療に手をこまねいた。

すると、皇帝は妃に命じた。


“香を焚き、子の病の因果を見ろ”


妃は従い、見た。

その記憶の中にあったのは──毒を混ぜる侍女の姿。


「妃は、その侍女を告発されました」


「……それが、ミエさん?」


「いいえ、あれは“偽の記憶”でした」


リンは目を見開く。


「誰かが……妃に“別の記憶”を混ぜた?」


「そうです。“皇族にとって都合のいい真実”を見せるために、香が使われた」


リンの中で、点と点が繋がる。

蝶香の用途、記憶の混濁、ヨウの失踪。


「玉葉妃は……記憶の改竄に気づいた?」


「ええ。だから、最後には誰にも何も告げず、香に身を投じました」


──“香の匂いが、誰かの声に似ていた”と、妃は言った。

それは、皇帝の声だった。


「王の声を、香の中に感じた妃は、自分が“操られていた”ことを悟ったのです」


リンの喉が、からからに乾く。

それは、ただの“暗殺”よりずっと根深い、“人格のすり替え”だった。


「ミエさん。ヨウ様は、ここで何を?」


「……“二度と、香で人を壊さない方法”を探しておられました」


「だから、“この香は誰も救わない”と」


「香は、真実を見る道具ではない。人の意思を歪める武器にもなる……と」


沈黙が落ちた。煙はゆっくりと天井へと昇っていく。


「……あなたは、見るのですか?」


ミエの問いに、リンは少しだけ微笑む。


「わたしは、“書く”側でいたいんです。真実は、記録の中に残します」


「では、どうか。ヨウ様の記録も、あなたに」


そう言って差し出された小冊子には、丁寧な文字が並んでいた。


──“この香は、王を癒すものにあらず。むしろ、王に都合のよい偽りを香り立たせる”──


リンはそれを受け取ると、ふと部屋を見渡した。


「この場所も……いずれ、誰かの手で封じられるでしょうね」


「ええ。香を支配する者たちは、真実を恐れますから」


リンは一礼し、部屋を後にした。


星見の間の扉が閉まる音は、まるで過去との決別のようだった。

けれど、その記録は、彼女の懐にしっかりと収められていた。

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