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薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
40/64

第40話:蝶の残香

調香室の空気は、いつもと違っていた。

香炉から立ちのぼる煙は白く細い。だがその細さは、まるで剃刀のように鋭く、室内に満ちる香気は、言葉の代わりに真実を告げるようだった。


リンは炉のそばにしゃがみ、香灰の中にそっと細い筆を差し入れる。

香の芯がまだぬくもりを残していた。


「──これは、蝶香ちょうこうだね」


独り言のように、けれど確かに言った。


蝶香。それは、記憶を封じ、操る香。


ヨウの筆跡で調香帳に記された“蝶断”の意図が、ようやくはっきりと見えてきた。


蝶紋を断ち切れ。それはつまり──この蝶香を使う者たちを疑えということ。


宦官・シンの沈黙。

玉葉妃に仕えた侍女の突然の失踪。

そして、ヨウの姿が最後に目撃されたのも、調香室。


リンは炉の脇にある瓶棚を見た。

ごく最近まで使われていた形跡がある瓶が二つ。

一つは乾いた龍脳の瓶。もう一つは、失われたとされていた“夜蝶香”──皇族専用の封印香の瓶だった。


記録にはないはずの香が、ここで調合されていた。


リンは震える指で、瓶を元に戻した。


「これを使ったのは……ヨウ、じゃない」


──彼女は、止めようとしていた。


誰かが蝶香を使って、妃や宦官、侍女に影響を及ぼしていた。

ヨウはそれに気づき、記録という形で“逆暗号”を残したのだ。


蝶の香に蝕まれていく者たちを、彼女は記録していた。


「なら、ヨウは……」


不意に背後で、きぃ、と戸の軋む音がした。


リンが振り返ると、そこに立っていたのは──宦官・シンだった。


「来ていたのですね。ここに」


「あなたも、調香師だったのね」


問いかけると、シンはふっと笑った。


「僕は妃の“道具”ですよ。命じられた香を焚き、香炉を磨き、記憶を薄める。…それが宦官の仕事だ」


「でも、本当にそれだけだったの?」


シンの視線が、静かに揺れる。


「あなたは、香で妃を守ろうとした。それとも──封じ込めた?」


問いかけに、シンは沈黙で答えた。

その沈黙が、なにより多くを物語っていた。


リンは懐から、小さな香袋を取り出した。


「これを見覚えは?」


香袋は、薄紅の絹で丁寧に縫われていた。中には、わずかばかりの“星香”──かつてヨウが唯一焚いたという、蝶香を無力化する香が入っていた。


「これを……君が?」


「ヨウから預かったの」


シンの瞳が、ほんのわずかに見開かれた。


「……君に託したんだね、彼女は」


「託されたわけじゃない。ただ、燃やすしかなかった香が、ここに残っていた。だから私は、ここに立っているだけ」


静かなやりとりの中に、炎よりも熱いものが燃えていた。


シンはやがて、目を伏せた。


「彼女は、罪を背負う形で消えた。それは……僕がそれを望んだからだ」


「なら、あなたがすべきことは、まだ終わってない」


そう言いながら、リンは香袋を香炉に落とした。

煙がふわりと立ちのぼる。星香が、蝶の記憶を塗り替える。


「香は、誰の意志で焚かれるか。それだけが、すべてを決める」


「君は、そう信じているのか?」


「信じなきゃ、この仕事なんてできない」


リンは香炉の煙越しに、まっすぐにシンを見た。

その目は、迷いも、恐れもない。


やがて、シンはひとつ、深く息を吐き出した。


「なら、僕も……答えを出すときだね」


夜が明けかけていた。

調香室の窓から射す光が、香煙の中に差し込み、まるで蝶の羽ばたきのように揺れていた。

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