第40話:蝶の残香
調香室の空気は、いつもと違っていた。
香炉から立ちのぼる煙は白く細い。だがその細さは、まるで剃刀のように鋭く、室内に満ちる香気は、言葉の代わりに真実を告げるようだった。
リンは炉のそばにしゃがみ、香灰の中にそっと細い筆を差し入れる。
香の芯がまだぬくもりを残していた。
「──これは、蝶香だね」
独り言のように、けれど確かに言った。
蝶香。それは、記憶を封じ、操る香。
ヨウの筆跡で調香帳に記された“蝶断”の意図が、ようやくはっきりと見えてきた。
蝶紋を断ち切れ。それはつまり──この蝶香を使う者たちを疑えということ。
宦官・シンの沈黙。
玉葉妃に仕えた侍女の突然の失踪。
そして、ヨウの姿が最後に目撃されたのも、調香室。
リンは炉の脇にある瓶棚を見た。
ごく最近まで使われていた形跡がある瓶が二つ。
一つは乾いた龍脳の瓶。もう一つは、失われたとされていた“夜蝶香”──皇族専用の封印香の瓶だった。
記録にはないはずの香が、ここで調合されていた。
リンは震える指で、瓶を元に戻した。
「これを使ったのは……ヨウ、じゃない」
──彼女は、止めようとしていた。
誰かが蝶香を使って、妃や宦官、侍女に影響を及ぼしていた。
ヨウはそれに気づき、記録という形で“逆暗号”を残したのだ。
蝶の香に蝕まれていく者たちを、彼女は記録していた。
「なら、ヨウは……」
不意に背後で、きぃ、と戸の軋む音がした。
リンが振り返ると、そこに立っていたのは──宦官・シンだった。
「来ていたのですね。ここに」
「あなたも、調香師だったのね」
問いかけると、シンはふっと笑った。
「僕は妃の“道具”ですよ。命じられた香を焚き、香炉を磨き、記憶を薄める。…それが宦官の仕事だ」
「でも、本当にそれだけだったの?」
シンの視線が、静かに揺れる。
「あなたは、香で妃を守ろうとした。それとも──封じ込めた?」
問いかけに、シンは沈黙で答えた。
その沈黙が、なにより多くを物語っていた。
リンは懐から、小さな香袋を取り出した。
「これを見覚えは?」
香袋は、薄紅の絹で丁寧に縫われていた。中には、わずかばかりの“星香”──かつてヨウが唯一焚いたという、蝶香を無力化する香が入っていた。
「これを……君が?」
「ヨウから預かったの」
シンの瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
「……君に託したんだね、彼女は」
「託されたわけじゃない。ただ、燃やすしかなかった香が、ここに残っていた。だから私は、ここに立っているだけ」
静かなやりとりの中に、炎よりも熱いものが燃えていた。
シンはやがて、目を伏せた。
「彼女は、罪を背負う形で消えた。それは……僕がそれを望んだからだ」
「なら、あなたがすべきことは、まだ終わってない」
そう言いながら、リンは香袋を香炉に落とした。
煙がふわりと立ちのぼる。星香が、蝶の記憶を塗り替える。
「香は、誰の意志で焚かれるか。それだけが、すべてを決める」
「君は、そう信じているのか?」
「信じなきゃ、この仕事なんてできない」
リンは香炉の煙越しに、まっすぐにシンを見た。
その目は、迷いも、恐れもない。
やがて、シンはひとつ、深く息を吐き出した。
「なら、僕も……答えを出すときだね」
夜が明けかけていた。
調香室の窓から射す光が、香煙の中に差し込み、まるで蝶の羽ばたきのように揺れていた。




