第4話:小さな計画と最初の障害
翌朝、リンはいつもより早く書庫へ向かった。顔には煤とインクの跡に加え、昨夜の徹夜の痕跡が微かに見て取れる。だが、その目には、これまでになく強い光が宿っていた。懐には、第二王子の病と「浄化の儀」について書き記した羊皮紙の切れ端が、慎重に隠されている。
(まず、王の耳に届く情報を扱う部署……)
リンの頭には、王宮内の組織図がぼんやりと浮かんでいた。書庫番という最底辺の立場ではあるが、日常の雑務を通じて、王宮の構造や人々の動線を、彼女なりに観察し、記憶してきたのだ。
真っ先に思いついたのは、**『上奏省じょうそうしょう』**だ。王への奏上を取り次ぎ、報告書を管理する部署。しかし、そこは厳重に管理されており、下級書庫番のリンが易々と近づける場所ではない。まして、顔も知らぬ者が、王子の病に関する奇妙な話を届けようなどとすれば、門前払いは確実だ。場合によっては、不審者として捕縛されかねない。
次に考えたのは、**『侍医局じいじょく』**だ。第二王子を診ている医師団の詰所なら、情報が届く可能性は高い。しかし、彼らは今、自分たちの無力さに苛立ち、焦燥しているはずだ。そんな中に、場違いな書庫番の少女が現れて、古代の治療法などと言い出したところで、鼻で笑われるか、侮辱されるのが関の山だろう。薬師である父の元で培った、現実的な観察眼がそう告げていた。
(直接は無理。ならば、誰か、私と同じくらい「真実」に飢えている人間を探すしかない)
書庫の埃っぽい空気を吸い込みながら、リンは思考を巡らせる。知識はあっても、それを伝える手段がなければ無力だ。今のリンには、誰かの助けが必要だった。
その日、リンはいつもの書物の整理に加え、王宮内の人々がどのような情報を求めているかを観察することに力を注いだ。上級書庫番のザックは、相変わらず無関心だったが、彼の机の上には、王宮内の各部署からの「閲覧希望」の札が置かれている。それらをさりげなく確認する。
やはり、第二王子の病に関する情報は、皆が欲していた。特に目についたのは、**『典薬局てんやくきょく』**からの札だ。ここは、王宮内で使用される薬草や薬剤の管理、調合を行う部署。侍医局とは異なり、より実務的で、新しい情報にも敏感なはずだ。
昼餉の時間。リンは、いつもより少し時間をかけ、食堂の様子を観察した。書庫番や下級の侍女、下働きの人々でごった返す喧騒の中、リンの目は、一人の中年女性に釘付けになった。彼女は、典薬局の制服を身につけ、周囲の騒ぎをどこか冷静に見守っている。顔には年季の入った皺が刻まれているが、その目には、知性とその奥に潜む諦めのようなものが宿っていた。
(あの人なら……もしかしたら)
リンは、典薬局の人間が書庫に足を運ぶのは知っていたが、直接話したことはなかった。典薬局の人間は、書庫では主に薬草や病理に関する古文書を探しに来る。もしかしたら、彼女なら、書物に記された古代の病理学に、わずかでも興味を示すかもしれない。
食堂での昼餉を終え、リンは典薬局の女性の動向を追った。彼女は、書庫とは逆方向の、侍医局に近い廊下へと向かっている。リンは、周囲に悟られないように、距離を保ちながら彼女の後を追った。心臓がドクドクと音を立てる。
目的の場所に着く前に、その女性が王宮の庭園へと立ち寄るのが見えた。庭園の片隅には、薬草が植えられた区画がある。女性は、その一角で、何かの薬草を熱心に調べている。
絶好の機会だ。
リンは、大きく深呼吸をした。そして、懐の羊皮紙の切れ端をそっと握りしめる。
「あの……」
消え入りそうな声で、リンは呼びかけた。女性がゆっくりと振り返る。その目は、少しばかり警戒の色を帯びていた。
「何か、御用でしょうか、書庫番さん?」
典薬局の女性は、不愛想なわけではないが、かといって友好的でもない、事務的な口調で答えた。リンの目の前に立ちはだかる、最初の小さな障害。この一歩を踏み出せるかどうかで、全てが決まる。
(この人に、私の話を聞いてもらわなければならない)
リンは、大きく息を吸い込んだ。




