第39話:記憶の熾火
朝靄の残る庭園に、水面が淡く揺れている。
朝陽はまだ穏やかで、冷えた空気の中、そこに香り立つ花の匂いが微かな温もりを添えていた。
リンは、玉葉妃のいる内廷へと歩を進めていた。昨日焚いた香=記憶の盾を携え、慎重に取り扱いながら。
玉葉妃はすでに湯殿にいて、蒸気に包まれていた。その傍らには、記憶の不安を少しだけ取り戻したような、落ち着いた顔つきがあった。
「……昨夜の香、効きましたわ」
妃は静かに言い、小さな湯杯を差し出した。
「──この香は、何のためかしら?」
リンは香の封を少し開き、香りを確かめた。
「これは、記憶を守る香です。――失われゆくものではなく、残り続けるものを維持するための調香です」
帽子をかぶったような花びらが束になった金絲桃、淡雪のような蘇葉、松の華のような杜松、そして微量の龍脳。
妃は、静かに頷いた。
「あなたのおかげで、私は今、少しずつ取り戻しています。あなたの名も、あなたの声も」
リンは胸が締めつけられるような感覚を覚えつつ、すべてを飲み込むように深呼吸した。
湯殿から戻ったリンは、調香帳を広げた。香の配合記録を再確認するためである。
そして、昨夜焚かれた香の欄に、小さく添えられた文字列があることに気づいた。
《☆蘇薫・忘却の証・筆記せよ》
その筆跡は、先の姫に納められた香にも、星見の間の事件で使われた香にも見られた、あのヨウの字によく似ていた。
リンは静かに唸った。
(つまり、ヨウがこの一連の香を操作していた……)
香は忘却だけでなく、誘導にも使われる。
最近起きた事件のすべては、香のコードによってつながっていたのだ。
さらに調香帳を調べ進めると、香の納品記録の隣に、宦官・シンの跡も並んでいた。
香の配達を命じたのは玉葉妃であるが、その内容や数量をメモし、調合確定させたのは宦官・シンだった。
「あなた……もしかして?」
夜、リンは調香室の裏口でシンとすれ違った。
穏やかな顔を向けられたが、リンの視線は鋭かった。
「香は薬。薬は記憶。「調香する者」が、誰をどう動かすか、決められた傀儡を扇動できる」
シンは沈黙した。
やがて、小さく頷く。
「……私は、妃さまの補佐に過ぎません。でも、それだけじゃない」
「あなたは、誰のために調香してるの?」
返答を待つことなく、リンはその夜の茶香を一皿差し出した。
シンの指に伝わったのは、氷のような温度と、ほんのり苦い薬草の残り香だった。
リンは調香帳の最後の方に、暗号の元となった文字列を見出した。
《蝶断 ≠ 星謡》
それは、ヨウが最後に書き残した、キーとなるフレーズ。
読み解くと──「蝶の紋を断ち切れ。星の歌ではなく」。
つまり、蝶のモチーフ(式薬や写本に刻まれた蝶紋)を使う術とは異なる“星の暗号”を見抜け、という意味だった。
リンは、星見の間に使われた香と、蝶紋の式薬は対立構造にあると推測した。そして、ヨウは「未来を読む星を拒む」という主張のもと、蝶に象徴される記憶の回帰的な香を拒絶したのだと。
五 記憶と意志を護る者
翌朝、調香帳を持って医局へ戻るリンを、宦官・シンが呼び止めた。
「香は、誰の記憶を守るのか。あなた自身の記憶を、忘れぬために使うのか?」と。
リンは静かに答えた。
「香は、使う者の意志を写す。私は誰かを護るために、記憶を護るために調香する」
「では……人は、意志によって香を選べるのですね」
シンは初めて、感謝の微笑を見せていた。
一度完結済みにしておきます。
明日以降執筆が終わり次第、再開します。




