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薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
39/64

第39話:記憶の熾火

朝靄の残る庭園に、水面が淡く揺れている。

朝陽はまだ穏やかで、冷えた空気の中、そこに香り立つ花の匂いが微かな温もりを添えていた。


リンは、玉葉妃のいる内廷へと歩を進めていた。昨日焚いた香=記憶の盾を携え、慎重に取り扱いながら。


玉葉妃はすでに湯殿にいて、蒸気に包まれていた。その傍らには、記憶の不安を少しだけ取り戻したような、落ち着いた顔つきがあった。


「……昨夜の香、効きましたわ」


妃は静かに言い、小さな湯杯を差し出した。


「──この香は、何のためかしら?」


リンは香の封を少し開き、香りを確かめた。


「これは、記憶を守る香です。――失われゆくものではなく、残り続けるものを維持するための調香です」


帽子をかぶったような花びらが束になった金絲桃、淡雪のような蘇葉、松の華のような杜松、そして微量の龍脳。


妃は、静かに頷いた。


「あなたのおかげで、私は今、少しずつ取り戻しています。あなたの名も、あなたの声も」


リンは胸が締めつけられるような感覚を覚えつつ、すべてを飲み込むように深呼吸した。


湯殿から戻ったリンは、調香帳を広げた。香の配合記録を再確認するためである。


そして、昨夜焚かれた香の欄に、小さく添えられた文字列があることに気づいた。


《☆蘇薫・忘却の証・筆記せよ》


その筆跡は、先の姫に納められた香にも、星見の間の事件で使われた香にも見られた、あのヨウの字によく似ていた。


リンは静かに唸った。


(つまり、ヨウがこの一連の香を操作していた……)


香は忘却だけでなく、誘導にも使われる。

最近起きた事件のすべては、香のコードによってつながっていたのだ。


さらに調香帳を調べ進めると、香の納品記録の隣に、宦官・シンの跡も並んでいた。


香の配達を命じたのは玉葉妃であるが、その内容や数量をメモし、調合確定させたのは宦官・シンだった。


「あなた……もしかして?」


夜、リンは調香室の裏口でシンとすれ違った。


穏やかな顔を向けられたが、リンの視線は鋭かった。


「香は薬。薬は記憶。「調香する者」が、誰をどう動かすか、決められた傀儡くぐつを扇動できる」


シンは沈黙した。

やがて、小さく頷く。


「……私は、妃さまの補佐に過ぎません。でも、それだけじゃない」


「あなたは、誰のために調香してるの?」


返答を待つことなく、リンはその夜の茶香を一皿差し出した。


シンの指に伝わったのは、氷のような温度と、ほんのり苦い薬草の残り香だった。


リンは調香帳の最後の方に、暗号の元となった文字列を見出した。


《蝶断 ≠ 星謡せいよう


それは、ヨウが最後に書き残した、キーとなるフレーズ。


読み解くと──「蝶の紋を断ち切れ。星の歌ではなく」。


つまり、蝶のモチーフ(式薬や写本に刻まれた蝶紋)を使う術とは異なる“星の暗号”を見抜け、という意味だった。


リンは、星見の間に使われた香と、蝶紋の式薬は対立構造にあると推測した。そして、ヨウは「未来を読む星を拒む」という主張のもと、蝶に象徴される記憶の回帰的な香を拒絶したのだと。


五 記憶と意志を護る者

翌朝、調香帳を持って医局へ戻るリンを、宦官・シンが呼び止めた。


「香は、誰の記憶を守るのか。あなた自身の記憶を、忘れぬために使うのか?」と。


リンは静かに答えた。


「香は、使う者の意志を写す。私は誰かを護るために、記憶を護るために調香する」


「では……人は、意志によって香を選べるのですね」


シンは初めて、感謝の微笑を見せていた。

一度完結済みにしておきます。

明日以降執筆が終わり次第、再開します。

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